漢詩研究《002》 『杜甫詩研究』のサイト

             杜詩詳注   巻六




    杜甫詩研究
      杜 詩 詳 注  全五冊   清・仇兆鰲
      杜 少 陵 集  全二五巻
      分門集註杜工部  全二十五卷
      全唐詩 杜甫詩歌 巻216 ― 234  全1100首
      全唐文 杜甫詩文 巻359 ― 360  全29文

杜詩詳注 巻六 〔上〕



05 杜詩詳注と杜甫全詩訳注 巻五
《杜詩詳注》唐・杜甫著 清・仇兆鰲注 中華書局出版
《杜甫全詩訳注》下定正弘・松原明編 講談社学術出版
《杜少陵詩集》 鈴木虎雄譯解    國民文庫刊行會



 杜詩詳注〔二〕・杜少陵集(二) 巻六
作時
杜詩
詳注

(二)
杜少
陵集
〔一〕
全詩
訳注

〔一〕
巻ID  詩題
06-01 宣政殿退朝晩出左掖(卷六(二)四三五)
758年
435
511
582
06-02 紫宸殿退朝口號(卷六(二)四三六)
758年
436
513
584
06-03  春宿左省(卷六(二)四三八)
758年
438
525
586
06-04  晩出左掖(卷六(二)四四○)
758年
440
526
588
06-05  ;題省中院壁(卷六(二)四四一)
758年
441
527
589
06-06  送賈閣老出汝州(卷六(二)四四三)
758年
443
529
591
06-07  送翰林張司馬(一云學士)南海勒碑(卷六(二)四四四)
758年
444
531
593
06-08  曲江陪鄭八丈南史飲(卷六(二)四四五)
758年
445
532
594
06-09  曲江二首其一(卷六(二)頁四四六)
758年
446
534
596
06-10  曲江二首其二(卷六(二)頁四四六)
758年
447
 
598
06-11  曲江對酒(卷六(二)四四九)
758年
449
537
600
06-12  曲江對雨(卷六(二)四五○)
758年
450
539
602
06-13  奉答岑參補闕見贈(卷六(二)四五二)
758年
452
541
604
6-13.
1
 寄左省杜拾遺(卷六(二)四五三)岑參詩
 
453
 

06-14  奉贈王中允維(卷六(二)四五四)
758年
454
542
606
06-15  送許八拾遺歸江寧覲省甫昔時嘗客遊此縣於許生處乞瓦棺寺維摩圖樣志諸篇末(卷六(二)
四五五)
758年
455
544
609
06-16  因許八奉寄江寧旻上人(卷六(二)四五八)
758年
458
547
612
06-17  題李尊師松樹障子歌(卷六(二)四五九)
758年
459
549
614
06-18  得舍弟消息(卷六(二)四六一)
758年
461
552
617
06-19  送李校書二十六韻(卷六(二)四六一)
758年
461
553
618
06-20  逼側行贈畢四(一本無四字)曜(卷六(二)四六六)
758年
466
559
625
06-21  贈畢四曜(卷六(二)四六九)
758年
469
563
629
06-22  題鄭十八著作丈(一作文)故居(卷六(二)四七○)
758年
470
564
631
06-23  痩(《英華》作老,詩同)馬行(卷六(二)四七二) 
758年
472
568
635
06-24  義鶻行(卷六(二)四七四)
758年
474
572
639
06-25  畫鶻行(卷六(二)四七七)
758年
477
576
643
06-26  端午日賜衣(卷六(二)四七八)
758年
478
579
646
06-27  酬孟雲卿(卷六(二)四七九)
758年
479
581
647
06-28  至コ二載甫自京金光門出間道歸鳳翔乾元初從左拾遺移華州掾與親故別因出此門有悲往事(卷六
(二)四八○)
758年
480
582
648
06-29  寄高三十五・事(卷六(二)四八二)
758年
482
584
650
06-30  贈高式顏(卷六(二)四八三)
766年
483
585
652
06-31  題鄭縣亭子(卷六(二)四八四)
758年
484
587
654
06-32  望岳(卷六(二)四八五)
758年
485
589
656
06-33  早秋苦熱堆案相仍(卷六(二)四八七)
758年
487
590
658
06-34  觀安西兵過赴關中待命二首其一(卷六(二)頁四八八)
758年
488
591
659
06-35  觀安西兵過赴關中待命二首其二(卷六(二)頁四八九)
758年
489
 
661
06-36  九日藍田崔氏莊(卷六(二)四九○)
758年
490
595
662
06-37  崔氏東山草堂(卷六(二)四九二)
758年
492
597
665
06-38  遣興三首其一(卷七(二)頁五四六)
758年
546
599
667
06-39  遣興三首其二(卷七(二)頁五四七)
758年
547
 
668
06-40  遣興三首其三(卷七(二)頁五四八)
758年
548
 
670
06-41  獨立(卷六(二)四九五)
758年
495
602
671
06-42  至日遣興奉寄北省舊閣老兩院故人二首其一(卷六(二)頁四九六)
758年
496
604
673
06-43  至日遣興奉寄北省舊閣老兩院故人二首其二(卷六(二)頁四九六)
758年
498
605
675
06-44  路逢襄陽楊少府入城戲呈(一作戲題四韻附呈)楊四員外綰(卷六(二)四九九)
758年
499
607
677
06-45  冬末以事之東都湖城東遇孟雲卿復歸劉宅宿宴飲散因為醉歌(卷六(二)五○○)
758年
500
609
679
06-46  閤郷姜七少府設鱠戲贈長歌(卷六(二)五○二)
758年
502
612
682
06-47  戲贈閤郷秦少府(?若作少公,一作翁)短歌(卷六(二)五○四)
758年
504
616
686
06-48  李蕚縣丈人胡馬行(卷六(二)五○六)
758年
506
618
687
06-49  觀兵(卷六(二)五○七)
758年
507
621
691
06-50  憶弟二首其一(卷六(二)頁五○八)
759年
508
622
692
06-51  憶弟二首其二(卷六(二)頁五○八)
759年
509
623
694
06-52  得舍弟消息(卷六(二)五一○)
759年
510
624
695
06-53
 不歸(卷六(二)五一一)
759年
511
626
696
06-54  贈衛八處士(卷六(二)五一二)(參用《中國文學欣賞全集》注釋)
759年
512
627
697
06-55  洗兵行(《杜臆》作行,舊作馬)(卷六(二)五一四) 
758年
514
630
670


唐・大明宮

唐・皇城とその付近






杜詩詳注(二)・杜少陵集 巻六作時(西暦)杜詩詳注(二)杜少陵集〔一〕
巻ID          詩題                                                   編年    杜詩詳注(二)   杜少陵集        
106-01  宣政殿退朝?出左掖(卷六(二)四三五)       758年          435           511

宣政殿は東内に属し、含元殿の後(北)に在る。左技とは左(東)側の小垣門をいう、作者は時に左拾遺の官にあり、門下省に属する。門下省は東内の東に在るので左垣門よりでるのである。宜政殿の参朝から退いて、夕方に左垣門を出て門下省の方へかえろうとしたときの作。




宣政殿退朝晩出左掖(掖門在兩旁如人之臂掖) 杜甫
 天門日射黄金榜,春殿晴?赤羽旗。
 宮草微微承委佩,鑪煙細細駐游絲。
 雲近蓬?常好色,雪殘?鵲亦多時。
 侍臣緩?歸青瑣,退食從容出?遲。
門下省のある宣正殿から退庁して晩方、左の旁門から退出する。(正門わきの旁門には両の傍らに肩と腕を守るかのように立っている)
宮殿の門は夕日のひかりがあたって、黄金の額縁のようにきれいだ、春の御殿の庭では朱雀を描いた旗が晴れてはいるが夕暮れにさしかかり、薄暗くにおうようである。
このときわたしが玉佩をひきずって来ると庭の草は幽静な緑色に変わっている、部屋内から、庭にまで香の煙を漂わせる。そして、香気、佳気を感じさせてほそぼそとのぼっている。
このあたりに浮んでいる夕霞は蓬莱宮に近いからいつも五色の彩をしているし、?鵲観かとおもえる建物にはずいぶんながく雪が残っている。
かくしてわたしはゆっくりと歩いて門下省青瑣門の方へ帰るのだが、わたしの詰め所へさがるには、今日もいつものように庭景色を楽しむため、ゆったりとして時刻おくれて退出するのである。





206-02  紫宸殿退朝口號(卷六(二)四三六)758年436 513


紫宸殿も東内に属する。南より北へ順次に含元殿・宜政殿・紫辰殿がある。宜政は前殿にして紫辰は便殿である。口号とは口ずから吟ずること。此の詩は紫辰殿へ朝して、とき口ずさんだ作である。○便殿 貴人の休息のために設けた御殿のこと。









306-03 春宿左省(卷六(二)四三八)758年438 525

左省は東省、東内、即ち門下省である。春、門下省にとまり番をした時に作る。








406-04  晩出左掖(卷六(二)四四○)758年440 526
左掖は東内の東側垣門のこと、前に見える。此の詩は蓋し或る日の夕がたこの門より出て自己の廨舎に帰ろうとしたことをいう。







晩出左掖
晝刻傳呼淺,春旗簇仗齊。退朝花底散,歸院柳邊迷。
樓雪融城濕,宮雲去殿低。避人焚諫草,騎馬欲?棲。
夕暮れて、門下省のわきのくぐり門を出る。
昼の時刻が知らされ、宮衛の点呼まわり番の声も近いものに聞こえる程度の声である。春用の簇仗の羽旗を一斉に整列して居る。
そうして、朝廷(紫宸殿)より退出してくると花ビラが、散り落ちて庭中に敷き詰められている、門下省の書院に帰ろうとして歩くと柳樹の緑が濃くなってあたりの景色を変えていて迷ってしまう。
南に向いて歩いていくと宮楼の雪はとけて城壁がぬれている。低く垂れこんでいた雲が去った後、御殿は低くなったかとおもわれる。
人をさけ、みられないような場所で諌申用の草稿文をやきすてる、そして執務室の後片付けをして、馬に騎って官舎に向おうとするとすでに鶏がねぐらにつこうとする夕闇がせまっている。









506-05  題省中院壁(卷六(二)四四一)758年441 527







題省中院壁
掖垣竹?梧十尋,洞門對霤常陰陰。
落花游絲白日靜,鳴鳩乳燕青春深。
腐儒衰?謬通籍,退食遲回違寸心。
袞職曾無一字補,許身愧比雙南金。
(省中の院壁に題す)
掖垣【えきえん】の竹?【ちくひ】十尋【じゅうじん】、洞門 対霤【たいりゅう】常に陰陰。
落花 遊糸 白日静かに、鳴鳩【めいきゅう】乳燕【にゅうえん】青春深し。
腐儒【ふじゅ】衰晩【すいばん】謬【あやま】って籍を通ず、退食【たいしょく】遅廻【ちかい】寸心【すんしん】違【たご】う。
袞職【こんしょく】曾て一字の補【おぎない】無し、身を許す愧【は】ずらくは双南【そうなん】金に比せしこと。
宮廷側の垣壁の編竹の垣根に十尋の高い梧桐が植えてある、その梧桐は、宣政殿を挟んで門下省、中書省が連って洞門をなし、雨の落ちる方向に向いている処なのでいつも影になっていて暗い。
春盛んな時、さすがに花が散り落ち、かげろうが燃えて真昼の日の光が静かに射しかける、鳩が鳴き、燕が子をかえすなど春の真っ盛りである。
このときくされ儒者たる自分は晩年で衰えかけているのに、まちがって仕官ができたのであり、役所のひけ時にぐずぐずして平生の本志は思うことのかなわないものである。
左拾遺という天子をお諌め申す役でありながらまだ一字として補いたてまつったことがない、これでは以前我と我が身に許して自己を南金の如き貴重なものに比べたことをはずかしくおもう。




606-06  送賈閣老出汝州(卷六(二)四四三)758年443 529






賈至(かし) 718年〜772年、安史の乱には、玄宗に従って、蜀に避れる。時に中書舎人であった。閣老とは舎人の牛深きものをいう尊称とし、或は門下省と呼びあう場合の称号とする、賈至をさしていうものである。汝州は河南省南陽府に属する。賈至は河南洛陽の人である。此の詩は中書舎人である貿至が長安から河南の汝州へ刺史として出かけるのを送るために作る。

送賈閣老出汝州
西掖梧桐樹,空留一院陰。艱難歸故裡,去住損春心。
宮殿青門隔,雲山紫邏深。人生五馬貴,莫受二毛侵。
中書省の垣門のそばの梧桐の樹。あの樹は君が居なくなってはいたずらに院内にわたる木陰をとどめておるばかりである。
君はこの世事の難儀なときに故郷の方へとかえり、いってしまう君も、とどまっておる自分も、ともに慶びの春の心を冷めてしまって傷むこころになるのである。
君が行くところはこの都の宮殿の東はるか青門からへだたったところであり、紫邏の雲山は奥深く遠いところである。
あなたは誰にとってもその人生において五馬を用意されるほどの官となる貴い位置なのである。髪の黒いうちにやっておくもので白髪なんぞに侵されるということがあってはならない。






706-07  送翰林張司馬(一云學士)南海勒碑(卷六(二)四四四)758年444 531



翰林は翰林院、翰林には司馬の官はない。張司馬については詳でないが司馬職の前の職が翰林院であったのであろう。南海は広東地方、勤碑は石碑に文字をはりつけること。
碑文は時の宰相の誰かがつくったもので杜甫ではない。司馬が南海の地へ碑文を彫り刻むために往くのを送るものである。


送翰林張司馬南海勒碑
冠冕通南極,文章落上臺。詔從三殿去,碑到百蠻開。
野館?花發,春帆細雨來。不知滄海上,天遣幾時回?








806-08  曲江陪鄭八丈南史飲(卷六(二)四四五)758年445 532















906-09曲江二首其一(卷六(二)頁四四六)758年446 534
1006-10曲江二首其二(卷六(二)頁四四七)758年447





至徳三載は二月に乾元と改元され、載から年にかわる。
杜甫は左拾位ではあるが朝廷においての疎外感はますます大きくなっていったようだ。玄宗上皇は興慶宮から大極殿の奥に移され、旧臣との接触を断たれた。羌村から鳳翔に帰るまでの紀行文はあるものの鳳翔から長安に入城に関しての詩がない。徹底的な疎外を受けていたのだろうか。この曲江二首を詠うまで以下の十詩があるだけだ。杜甫のこころの動きがよくわかるのでこの時期はすべて掲載する。
 この曲江の詩から刹那感が出始める。
曲江二首 其一
一片花飛減却春、風飄万点正愁人。且看欲尽花経眼、莫厭傷多酒入唇。
江上小堂巣翡翠、苑辺高塚臥麒麟。細推物理須行楽、何用浮名絆此身。




曲江二首 其二
朝回日日典春衣、毎日江頭尽酔帰。酒債尋常行処有、人生七十古来稀。
穿花?蝶深深見、点水蜻?款款飛。伝語風光共流転、暫時相賞莫相違。






1106-11 曲江對酒(卷六(二)四四九)758年449 537



曲江對酒
苑外江頭坐不歸,水精宮殿轉霏微。桃花細逐楊花落,?鳥時兼白鳥飛。
縱飲久判人共棄,懶朝真與世相違。吏情更覺滄洲遠,老大悲傷未拂衣。
春景色に誘われ、わたしはこの芙蓉苑の外、曲江の池畔で官舎に帰らないままにすわりこんであたりをながめる、水の妖精が生まれ出て水の宮殿がその光を輝かせ、霧のように飛散する水珠も輝く。
それから桃の花は微細に落ちち、やなぎの花、柳絮の散るあとを追いかけて落ちてまた落ちる、黄色の鳥たちは時を同じにして一斉に白色の鳥たちと飛びたつ。
勝手きままにすきなだけ酒を呑んで長いあいだ自暴自棄になり人も相手をしてくれない、参朝することが億劫になってしまい、世間の人皆から見放されてしまっている、実際自分も世の人とは違背しているのである。
官吏としての今の心持は、これまでよりももっと滄洲の仙境と隔たりができた様な気がするばかりで、こんなに年を取ってからでは衣を払って仙境に向って去って行けないことを傷み悲しむだけなのである。






1206-12 曲江對(晉作?)雨(卷六(二)四五○)758年450 539



曲江對雨
城上春雲覆苑牆,江亭?色靜年芳。林花著雨燕支濕,水?牽風翠帶長。
龍武新軍深駐輦,芙蓉別殿謾焚香。何時詔此金錢會,暫醉佳人錦瑟旁?
曲江池の辺で雨に逢う
城楼の上に春の雲が芙蓉苑の土塀に覆いかぶさっている、わたしが座ってやすんでいる曲江池ほとりの四阿には夕暮れかかって閑静な中、花や草のかおりがただよう。
芙蓉苑の林の花は雨にあたり「えんじ」の色がうるおい濃くなる、水の草の「あさざ」は風に引っ張られて翠色の帯のように長くのびている。
このとき玄宗上皇は新に置かれた竜武軍に衛れて大極殿の奥にふかく輦をとどめられており、それなのにこの芙蓉苑の別殿離宮では昔と同じようにただみだりに香を焚いてお待ちしている。
上巳節には前代の玄宗の時代にはさかんなものであったが、いつ今の粛宗から詔が仰せられて、金銭を拾わせるというような御会を催され、教坊の美人のかなでる錦瑟のかたわらで、しばし酔うことができることであろうか。







1306-13  奉答岑參補闕見贈(卷六(二)四五二)758年452 541



奉答岑參補闕見贈
窈窕清禁闥,罷朝歸不同。君隨丞相後,我往日華東。
冉冉柳絲碧,娟娟花蕊紅。故人有佳句,獨贈白頭翁。
岑参補闕が贈ってくれた詩を見た詩に答え奉る
頭がよく顔も美しいしとやかな美人は清らかに宮中の中にいる。何時も朝廷からは同じように帰るとは限らない。
岑参君は今後郭子儀宰相に後にしたがっていくとよい、わたしは日が昇り輝いている東の方に行くみたいだ、
今や、しだれ柳の青緑の小枝はやわらかに垂れ下がり、蝶などが美しく飛び、花芯は紅色である。
友達である君は、良い詩をたくさん作っている、その詩の一つになるものといえる詩を白髪頭のこの老人に贈ってくれる。










146-13.1 寄左省杜拾遺(卷六(二)四五三)岑參詩453



寄左省杜拾遺
聯歩趨丹陛、分曹限紫微。曉隨天仗入、暮惹御香歸。
白髮悲花落、青雲羨鳥飛。聖朝無闕事、自覺諫書稀。
門下省左省の杜甫左十遺に寄せる。
門下省の官僚が列をそろえて丹庭から、丹の階に向かう、部局の限られたものだけが紫微殿に入る。
朝の参事には天子の行列を護衛する兵にしたがってはいる。夕暮れてから宮中で焚かれる香の香りと一緒に紫微殿から帰る。
この白髪頭のわたしは春花が咲き誇っているのに散り落ちていくのを見ると悲しくなる。春霞の大空に鳥は飛んでいるのをうらやましく思う。
この天子の治められる朝廷においては政治上の欠陥というものが全くない。わたしは職務である天子をいさめる書をすることなど稀なことでしかないのを感じている。





1506-14  奉贈王中允維(卷六(二)四五四)758年454 542




奉贈王中允維
菩提寺禁、裴廸来相看、説逆賊等凝碧池上作音楽、
供奉人等擧聲、便一時涙下、私成口読、誦示裴廸。
萬戸傷心生野煙、百官何日再朝天。
秋槐葉落空宮裏、凝碧池頭奏管絃。
菩提寺の拘禁所に、裴迪が面会にやって来て、『逆賊らが凝碧池の畔で音曲を楽しんだが、かつての梨園の弟子たちが泣きだすと、みなどっと涙を流した』と話してくれた。ひそかに即興吟を作り、口ずさんで裴迪に示した。
長安の町中が人家は、廃墟と化して街中というに野のかすみがたちこめ、見るものの心を傷しめる。思いねがうは、文武百官の再び天子に拝謁することである、いつの日であろうか。
秋の槐の葵は、主のない宮殿に散り落ちているだけ、叛乱軍のやからは、洛陽宮の凝碧池の辺でにあわない音楽を奏し、酒宴をするという。













1606-15  送許八拾遺歸江寧覲省甫昔時嘗客遊此縣於許生處乞瓦棺寺維摩圖樣志諸篇末(卷六(二)四五五)758年455 544








1706-16  因許八奉寄江寧旻上人(卷六(二)四五八)758年458 547










1806-17  題李尊師松樹障子歌(卷六(二)四五九)758年459 549



老夫清晨梳白頭,玄都道士來相訪。握發呼兒延入?,手提新畫青松障。」
障子松林靜杳冥,憑軒忽若無丹青。陰崖卻承霜雪幹,偃蓋反走?龍形。』
老夫平生好奇古,對此興與精靈聚。已知仙客意相親,更覺良工心獨苦。
松下丈人巾?同,偶坐似是商山翁。悵望聊歌紫芝曲,時危慘澹來悲風。』
自分はきょうのはれあがったあした、しらがあたまをとかしていたとき、玄都観の道士李尊師がたずねてこられた。
大いそぎで髪をにぎりながら、こどもをよんで之を戸内へ招きいれた。尊師の手には新たにかかれたばかりの松の木を描かれた障子立をかかえている。』
その障子屏風の描かれた松林はしずかにとおく暗くつらなって居て、軒端の欄干によって眺めると丹青の画が消えて実物ばかりがある様におもわれる。
日陰のくらっぽいそばがけは霜雪をしのぐ松の幹をうけており、松の枝葉がかさなりあって笠のようであり、蛟や竜のようなさまを走らせている。』
このわたしはふだん奇古なものを好むが、この画に向うと、自己の感興は忽ち画者の精神といっしょになってしまった。
仙客というべき李尊師の御親切、心遣いはもとよりわかったが、之をかく時の画者がどんなにひとりで心を苦しめたかということに一層つよくこころに響いてくるのである。』
松の木の下に老人たちが画いてあり、そのいでたちはどれも互に同じである。そこに対坐しているその老人たちはどうやら商山の老人であるようである。
自分も憤然として南山の方をながめてちょっと四皓等が作ったと称する「紫芝曲」をうたうというと、この時にあたってもいまだに安泰ではなくしてものがなしく悲風が吹き来るのである。』









1906-18  得舍弟消息(卷六(二)四六一)758年461 552




得舎弟消息
風吹紫荊樹、色興春庭暮。花落辭故枝、風迴返無處。
骨肉恩書重、漂泊難相遇。猶有涙成河、經天復東注。
風が庭前の紫荊樹を吹きかかっている、樹の色が春のさかりの庭の色をおなじようにしながら暮れてゆく。
その花はもとの枝から辞し去るように私や親の元から去って、それが「叛乱」の風に吹きつけられ、もとの枝へかえろうとしてもかえるべき処さえない。
漂泊の身の上で、このような叛乱という難儀のために互に出遭うことは難しい、だからこそ、この際の血を分けた兄弟の手紙はことに重んずべきものである。
今もなお、わたしの涙が天の河にながれ出て、それが大空をわたっておまえの居る東の方へむけてそそぎつつあるのだ。






2006-19  送李校書二十六韻(卷六(二)四六一)758年461 553




逼側行贈畢四



2106-20  逼側行贈畢四曜(卷六(二)四六六)758年466 559








2206-21 贈畢四曜(卷六(二)四六九)758年469 563










2306-22  題鄭十八著作丈(一作文)故居(卷六(二)四七○)758年470 564









痩馬行



2406-23  痩(《英華》作老,詩同)馬行(卷六(二)四七二) 758年472 568



痩馬行
東郊?馬使我傷,骨骼?兀如堵牆。絆之欲動轉欹側,此豈有意仍騰驤?
細看六印帶官字,?道三軍遺路旁。皮幹?落雜泥滓,毛暗蕭條連雪霜。』
去?奔波逐餘寇,??不慣不得將。士卒多騎??馬,惆悵恐是病乘?。
當時?塊誤一蹶,委棄非汝能周防。見人慘澹若哀訴,失主錯莫無晶光。
天寒遠放雁為伴,日暮不收烏啄瘡。誰家且養願終惠,更試明年春草長。』
長安の城の東の野原に痩せた馬がいて、之をみると自分はかなしくなる、この馬の骨組はでこぼこ浮きだし、側面からみると土塀が立っている様なのだ。
これを縄でつなごうとしているのだが、動いてとしていよいよ體を直立しようとはしない、その様子では、この馬は痩せてしまって、以前のように躍り上がろうとする気持ちがまだあるのだろうか。
仔細にみるとこの馬には官でおした焼き印が六箇所ばかりある、このあたりの人々のいうには官軍がみちばたにすてたのだそうだ。
その皮は傷などの糜爛が剥げて落ちてそのままになっている、泥や汚い滓が混ざっており、毛の艶はきえうせてさびしく真っ白い色がつづいている状態だ。
去年官軍は狂奔して安史軍の余党を逐いまわしたが、その士卒どもは千里の駿足にはのりなれぬからのることができなかったのだろう。
彼等は多くおとなしく訓練されている宮中のおうまやの馬にのった。自分のいたましくおもうのは、そのときこの痩せ馬もおうまやの駿馬であったのだが、病気してほっておかれたのだろう。
大事な戦いの当時、病気をしていて土塊のうえをとおるときちょっとしたことで蹴躓いたので棄てられたのだ、、その棄てられることというのは汝、この痩馬が防止し得る所ではなくいわば運命なのだ。
今この馬は人を見てはものがなしそうにしてかなしみうったえるが如く、主人を失ってはさびしく眼の光もうせている。
冬時の寒空に遠くへはなれて雁を伴侶となし、日が暮れても取り入れられず、烏がきて切り傷の処をつついている。
誰かの家でこの馬をかりに飼養してくれるものはないだろうか、もしあるならばどうかそのめぐみを最後までつづけてもらいたいのだ。それができたら、明年春の若草の伸びたときに更にこの馬の力を試してみょうとおもうのだ。





2506-24 義鶻行(卷六(二)四七四)758年474 572



義理ある鶻のことをよんだうたである。鶻は「あおだか」の類、「ぬくめどり」という猛鳥である。
杜陵の住居に近い?水のほとりにおいて樵夫よりきいた話で、鶻が蒼鷹のために白蛇を殺し、子鷹を食った仇を討ったことを述べている。
陰崖有蒼鷹,養子K柏顛。白蛇登其?,?噬恣朝餐。』
雄飛遠求食,雌者鳴辛酸。力強不可製,?口無半存。
其父從西歸,翻身入長煙。斯須領健鶻,痛憤寄所宣。』
#2
鬥上捩孤影,咆哮來九天。修鱗?遠枝,巨??老拳。
高空得??,短草辭蜿蜒。折尾能一掉,飽腸皆已穿。』
#3
生雖滅?雛,死亦垂千年。物情可報複,快意貴目前。
茲實鷙鳥最,急難心炯然。功成失所往,用舍何其賢!』
#4
近經?水?,此事樵夫傳。飄蕭覺素發,凜欲沖儒冠。
人生許與分,只在顧?間。聊為義鶻行,永激壯士肝。』






2606-25  畫鶻行(卷六(二)四七七)758年477 576


鶻鶴の画をみて感じた所をのべた詩である。758年乾元元年、なお朝廷にあって疎外感を持っていた時の作。




畫鶻行 #1 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 264




2706-26  端午日賜衣(卷六(二)四七八)758年478 579



左拾遺であったとき、宮中より衣をたまわったことをのべている。杜甫が子供のように喜んでいる。杜甫人生、全詩の中から唯一無二の作品である。
この一年間、杜甫は、左拾位としての仕事はさせてもらえなかった。朝廷内において、だれからも相手にされない、公的な詩も残していない。この間の詩はこのブログではカテゴリー『左拾位での詩(11)』ということで検索できる。どこか疎外感、寂しさを感じさせる索引である。その中にあって、この作品は「端午日賜衣」異彩を放っている。この後、左遷されるのであり、そのことを全く感じさせない作品であり、哀れと刹那を感じずにはいられない作品である。



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