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安史の乱勃発   安史の乱(ものがたり)




    杜甫詩研究

      杜 詩 詳 注  全五冊
      杜 少 陵 集  全二五巻
      分門集註杜工部  全二十五卷
      全唐詩 杜甫詩歌 巻216 ― 234  全1100首
      全唐文 杜甫詩文 巻359 ― 360  全29文

安史の乱勃発


安史の乱(ものがたり)





 安史の乱(ものがたり)





(1)







 安史の乱(ものがたり)

     ・ 
     ・1. 安禄山の乱 前夜
     ・2. 安禄山の乱 勃発
     ・3. 安禄山軍勢 怒涛
     ・4. 封常清,高仙芝死す
     ・5. 李光弼の進撃
     ・6. 雍丘の戦い
     ・7. 郭子儀と李光弼
     ・8. 哥舒翰敗れる
     ・9. 玄宗西走す
     ・10. 楊貴妃絞殺
     ・11. 長安陥落
     ・12. 玄宗入蜀・粛宗霊武へ
     ・13. 粛宗が反撃のために兵慕、体制を整える
     ・14. 粛宗即位し、霊武を行在所とし、天下に布武
     ・15. 永王李リンの乱
     ・16. 玄宗上皇長安に還る
     ・17. 玄宗上皇崩御
     ・ 
     ・ 



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1. 安禄山の乱 前夜







 安史の乱前夜

天寶13年(754)―――――――――――――    去年から、水害、旱害が相継いで、関中が大いに餓えた。
  楊国忠は、京兆尹・李ケンが自分に靡かないので憎んでおり、災害の責任を李ケンに押しつけた。
9月
  李ケンを長沙太守に左遷した。 長雨で穀物が駄目になることを玄宗皇帝が心配したので、 楊国忠はよく稔った稲穂を献上して言った。 「雨は多いのですが、稔りに害はありません。」 玄宗皇帝は納得した。  扶風太守の房カン【金+旱】が上言した水害の被害箇所は、 楊国忠が御史に調べさせたものである。さすがに、この年、敢えて災害を口にする者は、天下にいなかった。 高力士が側に侍っていたので、玄宗皇帝は言った。 「長雨が止まない。卿は言いたいことを忌憚なく話してくれ。」 高力士は対して言った。 「陛下は権威を宰相に与え、賞罰はでたらめです。それで陰陽の調和が乱れたのです。 臣に何を言うことがありましょうか!」
  玄宗皇帝は苦渋の顔で黙り込むだけであった。


  天寶14年(755)――――――――――――
2月
  辛亥、安禄山が、副将・何千年を入奏させた。漢将の代わりに蕃将三十二人を登用することを請願した。 玄宗皇帝は、その日の内に勅を発するよう命じ、与えた。
  韋見素が楊国忠に言った。「安禄山は、ずいぶん前から叛意を抱いていました。今また、この請願があります。 その造反は明白です。明日、韋見素が極言します。陛下が悟らなければ、公が後に続いてください。」
宗皇帝は彼らを迎えて言った。
  「卿らは安禄山を疑っているのだろう?」
  楊国忠は許諾した。
  壬子、韋見素は、安禄山の造反準備の様子を口を極めて語り、請願を許可しないよう言った。 玄宗皇帝は不機嫌になったし、楊国忠は逡巡してあえて言わない。 上意は、安禄山の請願に従った。
  他日、楊国忠と韋見素が玄宗皇帝へ言った。 「臣に策があります。安禄山の陰謀など、坐して消せます。今、もし安禄山を平章事にして 闕を詣でるよう呼び出し、賈循を范陽節度使、呂知晦を平盧節度使、楊光?を河東節度使とすれば、 その勢力は自ずから分散します。」
  玄宗皇帝は、これに従った。
  だが、制の草稿が完成しても、玄宗皇帝は手元に留めて発せず、中使・輔シン琳を派遣して 安禄山へ珍果を賜り、密かに彼の本心を探らせた。
  輔シン琳は安禄山から厚く賄賂を受け、帰ってくると、 安禄山が忠義を尽くして国を奉り二心などないと盛言した。玄宗皇帝は、楊国忠らへ言った。
  「朕は安禄山へ誠心で接している。異志などあるわけがない。東北 の二虜は、彼が鎮圧しているのだ。朕が自ら保つ。卿らは憂うることはない。」楊国忠と韋見素が入見した。すると、玄宗皇帝は、楊国忠らへ言った。
 「朕は安禄山へ誠心で接している。異志などあるわけがない。東北 の二虜は、彼が鎮圧しているのだ。朕が自ら保つ。卿らは憂うることはない。」
  結局、沙汰やみとなった。
  安禄山は范陽へ帰ると、朝廷からの使者が来る度に病気と称して出迎えず、盛大に武備をしたあとで 謁見するようになった。裴士淹が范陽へ到着しても、二十余日も謁見せず、人臣としての礼などかけ らもなかった。
  楊国忠は、日夜、安禄山の造反の証拠を探す。京兆尹へ彼の第を包囲させ、安禄山の客李超を捕らえ、 御史台の牢獄へ送って、密かにこれを殺した。
安禄山の子息の安慶宗は宗女の栄義郡主を娶り、供奉して京師に在住していた。 彼は、この件を密かに安禄山へ知らせた。安禄山はいよいよ恐れた。
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2. 安禄山の乱 勃発
6月
  玄宗皇帝は、その子の結婚を名目にして手詔で安禄山を呼び出したが、 安禄山は病気を理由にして、来なかった。

7月
  安禄山が、馬三千匹を献上すると上表した。馬ごとに二人の武人が轡を執り、二十二人の蕃将が率いると 言うのだ。河南尹・達奚cは変事が起こることを疑い、 上奏して請願した。 「安禄山へは、車馬を勧めるのは冬まで待つべきであり、 運搬員は官で準備するので本軍を患わす必要はないと諭しましょう。」 ここにおいて、玄宗皇帝はやや悟り、初めて安禄山へ疑惑を持った。 輔チン琳の収賄が発覚すると、玄宗皇帝は他のことにかこつけて、これを撲殺した。 玄宗皇帝は、中使・馮神威を派遣して、手詔でcの策のように安禄山を諭し、且言った。 「朕は、卿のために新たに温泉を作った。華清宮にて卿を待っている。」馮神威が范陽へ到着して旨を宣べると、安禄山はベットから微かに起きただけで拝礼もせず言った。「聖人はお元気か。」 また、言う。「馬は献上しないでも良いが、十月には京師へ参上しよう。」そして馮神威を館舎へ退がらせるよう近習へ輔命じ、二度と謁見しなかった。 数日して帰らせたが、文書も持たせなかった。
  馮神威は、帰ると上を見て泣きだして言った。「臣はもう陛下にまみえられないかと思っておりました!」

10月
  安禄山が三道を専制し密かに異志を蓄えてから、ほぼ十年。上から厚く寵遇されていたので、 玄宗皇帝が崩御するのを待ってから叛乱しようと思っていた。
  楊国忠は安禄山とそりが会わず、安禄山が造反するとしばしば上言するようになったが、玄宗皇帝は信じなかった。 そこで楊国忠は、様々に彼を挑発して、早く造反を起こさせて玄宗皇帝からの信頼を取ろうと考えた。 安禄山は、これによって早急に造反することを決意し、孔目官・太僕丞の厳荘、掌書記・屯田員外郎の高尚、 将軍の阿史那承慶とだけ密謀し、他の将佐は何も知らなかった。ただ、八月以来、士卒を饗応し、 馬へ馬草を食わせ兵を鍛えることを奇異に思っていただけだった。  奏事官が長安から帰ってくると、安禄山は偽りの勅書を作り、諸将を全員召集して これを示して言っ
た。 「安禄山は将兵を率いて入朝し、楊国忠を討伐せよ、と密旨が下った。諸君はすぐに従軍せよ。」衆は愕然として顔を見合わせたが、敢えて異議を唱える者はいなかった。
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  安禄山の乱(安禄山が乱を率いた。後、殺され、史忠明が引き継いだので『安史の乱』という。)

  勃発

11月
  甲子、安禄山は麾下の兵及び同羅兵、奚兵、契丹兵、室韋兵を挑発した。およそ15万。 号して20万。范陽にて造反した。

  范陽節度副使・賈循に范陽を、平盧節度副使・呂知晦に平盧を、別将・高秀厳に大同を守らせ、 諸将は皆兵を率いて夜半に出立した。
  朝、安禄山は薊城の南に出た。大閲して衆と誓い、楊国忠討伐を名目とし、 軍中へ命令書を回して言った。
  「異議を唱えて軍人を煽動する者は、三族まで斬る!」
  ここにおいて、兵を率いて南下した。 安禄山は鉄の輿に乗り、歩騎は精鋭。煙塵は千里も続き、軍鼓の音は大地を震わせた。 この頃、海内は承平が続き、百姓は何代にもわたって戦争を知らなかった。突然、范陽で造反が起こったと聞いて、 遠近は震え上がった。
  河北はみな、安禄山の統治する領土だったので、通過する州県は、風を望んで瓦解し、 太守や県令はあるいは城門を開けて迎え入れ、あるいは城を棄てて逃げ隠れ、あるいは捕らわれて殺され、 敢えて拒む者はいなかった。
  安禄山は、将軍に任じた何千年、高ゲイに奚騎兵二十を与えて先触れとし、 弓の巧者は駅に乗って太原へ結集するよう伝えさせた。
  乙丑、北京副留守・楊光サイが出迎えたので、拉致して去った。 太原は、実情を具に上言した。東受降城もまた、安禄山の造反を上奏した。だが、それでも 玄宗皇帝は、なお、安禄山を憎む者のでっち上げと思い、信じなかった。
  庚午、玄宗皇帝は安禄山が確かに造反したと聞き、宰
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相を呼び出してこれを謀った。
楊国忠は得意満面で言った。  「今、造反したのは安禄山一人だけで、将士は従いたがっておりません。十日も過ぎぬ内に、 必ずや首が行在所まで届けられましょう。」 今や、楊國忠に頼るしかなく、玄宗皇帝も同意した。大臣達は、顔を見合わせて顔面蒼白になった。 玄宗皇帝は、特進・畢思タンを東京へ、金吾将軍・程千里を河東へ派遣し、各々数万人をかき集めさせて 団結して拒ませた。
  辛未、安西節度使・封常清が入朝した。玄宗皇帝が討賊の方略を問うと、 封常清は大言した。  「現在まで、国内の泰平が長く続いたので、人々が賊を恐れているだけです。 しかし、事には順逆があり、勢いは変わって行くもの。 臣が東京へ行って府庫を開き驍勇を募り、馬に鞭打って渡河すれば、 数日の内に逆胡の首を取って陛下へ献上いたしましょう!」
  玄宗皇帝は悦んだ。
  壬申、封常清を范陽・平盧節度使とした。封常清は即日駅に乗って東京へ向かって募兵した。 旬日にして6万人が集まった。河陽橋を落し、守備を固めた。
  甲戌、安禄山は博陵の南まで進軍した。何千年らは楊光サイを捕らえて安禄山の前へ引き出した。 楊光サイが楊国忠に附いたのを責め挙げて、これを斬った。
  安禄山は、その将・安忠志に精兵を与えて土門へ進駐させた。 安忠志は奚民族で、安禄山は養子とした。また、張献誠を摂博陵太守とした。
  安禄山は藁城へ進軍した。常山太守・顔杲卿は、力不足で拒戦できず、長史・袁履謙とともに出迎えた。 安禄山は顔杲卿へ即座に金紫を下賜し、その子弟を人質にとって、 常山を守らせた。また、その将・李欽湊へ数千の兵を与えて井ケイ口を守らせ、 西から来る諸軍へ備えさせた。
  顔杲卿は、帰る途中にその衣を指さして、 袁履謙へ言った。   「誰のためにそれを着るのだ?」  袁履謙はその心中を悟り、密かに顔杲卿と共に起兵して 安禄山を討つ謀略を練った。
  丙子、玄宗皇帝は宮殿に帰った。太僕卿・安慶宗を斬り、栄義郡主に自殺させ、朔方節度使・安思順を吏部尚書とし、安思順の弟の安元貞を太僕卿とした。そして、朔方右廂兵馬使・郭子儀を朔方節度使とし、右羽林大将軍・王承業を太原尹とした。河南節度使を設置し、 陳留など十三郡を領有させ、衛尉卿猗氏の張介然をこれに任命した。 程千里を路州長史とした。そして、賊軍の進路に当たる諸郡には、始めて防禦使を設置したのである。
  丁丑、栄王・李エンを元帥とし、右金吾大将軍・高仙芝を副官として諸軍を全て東征させた。 内府の銭帛を出して長安で11万人を募兵し、天武軍と名付けた。十日にして集まった。 みな、市井の子弟である。

12月
  丙戌、高仙芝が兵を率い、長安にいた兵5万人と併せて長安を出発した。 玄宗皇帝は、宦官の辺令誠を派遣してその軍監とした。すぐに、 陜に屯営する。
  丁亥、安禄山は、霊昌から黄河を渡り、壊れた船や草木を綱で結んで河の流れを横に 断ったところ、 厳寒期である、一晩で凍結し、浮き橋のようになった。すぐに、霊昌郡を落とした。ただ、安禄山の歩騎は統制が取れず、人員、勢力の数も判らなかった。通過する各所で、掠奪行為が頻発した。しかし、張介然が陳留へ到着してわずか数日で安禄山が進軍してきた。兵を授けて城へ登れば、衆は恐々としており、 とても守れそうになかったのである。
  庚寅、太守の郭納が城を以て降伏した。安禄山は北郭へ入って、安慶宗の死を聞き、 慟哭して言った。  「私に何の罪があって、我が子を殺したのか!」 この時、降伏した陳龍の将士1万人近くが、道を挟んでいた。安禄山はその怒りに任せて殲滅、皆殺を命じたた。 軍門にて、張介然を斬り、その将・李庭望を節度使として、陳留を守らせた。
  壬辰、玄宗皇帝は制を下して親征しようとした。城堡の外で留守をしている朔方・河西・隴右の兵をみな、 行在所へ赴かせ、 節度使に自らこれを率いさせた。二十日にして結集させた。
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3. 安禄山軍勢 怒涛






安禄山軍勢怒涛

12月
  話は前後するが、平原太守・顔真卿は、安禄山の造反を知ると長雨を利用して城の周りへ濠を完備させ、 成人男子の数を数えて倉庫を兵糧で満たした。安禄山は、顔真卿を書生と侮り、軽く見ていた。安禄山が造反するに及んで、平原・博平の兵七千人で河津を守るよう顔真卿に命令書を回した。 顔真卿は平原司兵・李平を派遣し、彼は間道から京師へ入って上奏した。 安禄山が造反した当初、玄宗皇帝は、河北の郡県は風に靡くように降伏したと 聞き嘆いて言った。  「二十四郡に、一人の義士も居ないのか!」 平原郡の使者が来るに及んで、大いに喜んで言った。「朕は顔真卿の顔も知らないのに、こんなにも尽くしてくれるのか!」
  顔真卿は、信頼おける人間を、密かに諸郡へ派遣して抗賊の文書を配った。これによって、 諸郡は多く内応した。顔真卿は、顔杲卿の従弟である。安禄山は兵を率いてケイ陽へ向かった。太守の崔無?がこれを拒んだ。 だが、城へ乗った士卒は、軍鼓や角笛を聞くと、自ら雨のように墜落していった。
  癸巳、安禄山はケイ陽を落とした。縡無ヒを殺し、その将・武令cに これを守らせた。安禄山の声勢はますます盛大になった。その将の田承嗣・安忠志・張孝忠を前鋒とした。
  さて、封常清の募兵して編成した軍は、全員素人で、まだ訓練を受けていなかった。 武牢に屯営して敵を拒んだが、賊は鉄騎でこれを蹂躙して封常清は大敗した。封常清は敗残兵をかき集めて葵園にて戦い、また敗れた。 上東門で戦い、また敗れた。
  丁酉、安禄山は東京を落とした。賊は軍鼓を派手に鳴らしながら四門から突入し、 掠奪の限りを尽くした。封常清は都亭駅にて戦い、また敗れた。 退いて宣仁門を守ったが、また敗れた。 苑西の壊れたひめがきから脱出して西へ逃げた。そして、河南尹の達奚cが安禄山に降伏した。 留守の李チョウが御史中丞・盧奕へ言った。  「我らは国の重任を担っている。知力では敵わないとはいえ、命を捨てるべきだ!」盧奕は許諾した。李チョウは敗残兵数百をかき集めて戦おうとしたが、皆は李チョウを棄てて逃げだした。 李チョウは一人府中へ坐った。盧奕はまず妻子へ印鑑を託して間道から長安へ落ち延びさせ、朝廷の正装で台中へ坐った。 左右はみな、逃げ散った。
  安禄山は閑厩に駐屯し、李チョウと盧奕及び采訪使・蒋清を捕らえさせて、全員殺した。 盧奕は安禄山を罵り、その罪状を数え上げ、賊党を顧みて言った。 「人と生まれたからには、順逆の理を知らねばならぬ。私は死んでも節義を失わない。 また何を恨もうか!」 安禄山は、その党類の張万頃を河南尹とした。封常清は、敗残兵を率いて陜へ至った。陜郡太守・竇廷芝は、既に河東へ出奔し、吏民はみな、逃げ散っていた。 封常清は、高仙芝へ言った。「私は連日血戦しましたが、賊の勢いは当たるべからざるものがあります。それに、潼関には兵がいません。 もしも賊が関へ突入したら、長安は危険です。陜は守りにくい場所です。 まず、兵を退いて潼関にて拒みましょう。」
  高仙芝は兵を率いて潼関へ向かった。 賊がやってくると、高仙芝軍は狼狽して逃げだし、士馬が踏みにじりあって大勢の士卒が死んだ。 しかし、潼関へ到着すると防備を修めたので、賊が到着しても入りきれずに退却した。
  安禄山は、その将・崔乾祐を陜へ屯営させた。臨汝・弘農・済陰・濮陽・雲中郡はみな、 安禄山に降伏した。
  この時、朝廷は諸道の兵を徴発していたが、まだ集結していなかったので関中は大騒ぎになった。 だが、安禄山は帝を潜称しようと東京に留まったまま進まなかったので、朝廷は準備期間を得て、 兵もやや集まってきた。
  安禄山は張通儒の弟の張通晤を?陽太守として、陳留長史・楊朝宗と共に胡騎千余を与えて 東方を後略させた。郡県の官の多くは風を望んで降伏したり逃げ出したりした。ただ、東平太守・嗣呉王・李祗、 済南太守・李随は起兵して拒んだ。賊に従わない郡県は、全て呉王・李祗を盟主とした。 単父尉・賈賁は吏民を率いて南下し、?陽を攻撃し、張通晤を斬る。李庭望は兵を率いて 東へ向かおうとしていたが、これを聞くと敢えて進軍せずに退却した。玄宗皇帝は、親征を議論していた。
  辛丑、制を下して太子・李亨を監国とし、宰相に言った。 「朕は在位五十年にも及び、政務にも疲れた。去年の秋、太子へ位を伝えたかったが、 水害旱害が並び起こった。余災を子孫へ遣りたくなかったので、豊作になるまで待っていたのだ。 そう思いきや、逆胡が造反した。朕が自ら親征するべきだ。よって、太子を監国とする。 無事に平定できれば、朕は枕を高くして、引退できる。」 楊国忠は大いに懼れ、退出の後に韓・?・秦の三夫人へ言った。  「太子は、昔から我らの専横を憎んでいた。もしも一旦天下を得たら、私も姉妹も命がないぞ!」
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4. 封常清,高仙芝死す






説得させて、 玄宗皇帝に親征を思い止まらせた。ついに、親征は沙汰止みとなった。
  一方、顔真卿が勇士を募ると、十日で一万人を越えた。顔真卿は、まず彼らに対して挙兵して 安禄山を討つことを諭し、継いで涕泣した。士はみな、感憤した。安禄山は、段子光へ李チョウ・盧奕・蒋清の首を預け、河北諸郡を巡回させた。
  壬寅、平原にて顔真卿が段子光を捕らえ、腰斬に処した。三人の首を取って、蒲で体をつくり、 棺桶へ収めて埋葬した。祭哭して弔った。安禄山は、海運使・劉道玄が摂景城太守だったとして、清池尉の賈載と塩山尉の河内の穆寧に、 斬らせた。これで、甲杖五十余船を得た。劉道玄の首は、長史の李イへ見せた。李イは 厳宗の宗族を捕らえ、全員誅殺した。
  この日、劉道玄の首が平原に到着した。 顔真卿は、載・寧及び清河尉・張澹を平原へ呼び出して事を謀った。饒陽太守・盧全誠は城へ據って、交代を受け付けなかった。 河間司・法李奐は安禄山の任命した長史・王懐忠を殺した。李随は、遊?将?を派遣して、 河を渡って安禄山の任命した博平太守・馬冀を殺した。各々へ兵力は数千から一万人。共に顔真卿を推して盟主とし、 軍事はみな受け継いだ。
  安禄山は、張献誠へ上谷・博陵・常山・趙郡・文安五軍の兵一万人を与え、 饒陽を包囲させた。




封常清,高仙芝死

12月
  高仙芝が東征すると、監軍の辺令誠がしばしば口出しした。 高仙芝は、大半は従わなかった。辺令誠は入奏する時、高仙芝や封常清の敗戦の有様をつぶさに語り、 かつ、言った。 「封常清は賊の力を過大に吹聴して、衆心を動揺させました。高仙芝は、陜の土地数百里を棄てました。 また、軍士の兵糧を着服しています。」 玄宗皇帝は大いに怒った。
  癸卯、軍中にて封常清と高仙芝を斬るよう勅を下し、辺令誠を派遣した。話は遡るが、封常清が敗北したとき、使者を三度派遣して上表し、賊の形勢を述べた。 しかし、玄宗皇帝は一つも見なかった。封常清は、自ら闕へ駆けつけようとしたが、 渭水まで来た時に勅が降り、官爵を削った上、一兵卒として高仙芝軍へ戻るよう命じられた。 封常清は上表状を遺した。「臣が死んだ後、陛下が賊を軽く考えないことを望みます。 どうかこの言葉を忘れないでください!」 この頃の朝議の席では、誰もが安禄山のこと
  を、 「単なる狂悖の徒で数日の内に首が届けられる」と考えていた。だから封常清はこう言ったのである。 封常清が死んだ後、屍はさらし者とされて、みな驚愕した。高仙芝が帰ってきて軍務を執ろうとすると、辺令誠は捕り手百余人を従えて 高仙芝に言った。  「大夫にもまた、陛下の命令が下っている。」高仙芝が跪くと辺令誠は勅を宣べた。高仙芝は言った。 「私は、敵に遭って退却した。死刑となるのも理が通っている。だが、天地に誓って宣言する。 私が糧食を盗んだことだけは、冤罪だ。」 この時、士卒たちも目の前にいた。彼らはみな、大声で冤罪だと叫び、 その声は大地を震わせた。しかし、処刑は断行された。
  将軍の李承光がその兵卒を仮に指揮した。   河西・隴右節度使・哥舒翰は病気で退役して家にいた。玄宗皇帝は、彼の威名を借りるため、 また、彼が日頃から安禄山と仲が悪かったこともあり、呼び出して謁見し、兵馬副元帥を授け、 8万の兵を率いて安禄山を討つよう命じた。また、天下四面の兵に進軍して 洛陽を攻撃するよう勅を下した。
  哥舒翰は病気を理由に固辞したが、玄宗皇帝は許さなかった。田良丘を御史中丞として行軍士馬へ任命し、 起居郎・蕭マを判官として、蕃将・火抜帰仁らにおのおの部落を率いて従軍させた。 高仙芝の旧兵と併せて、号して20万。潼関に布陣させた。哥舒翰の病気は治らず、軍政は全て田良丘に委ねられた。 田良丘もまた決断力がなく、王思礼に騎兵を李承光に歩兵を指揮させたが、 二人は主導権を争って統一がとれなかった。哥舒翰は軍法を厳格に適用して憐みがなかったので、 士卒はみな嫌気が差して、闘志がなかった。
  安禄山の大同軍使・高秀巖が振武軍を襲撃した。朔方節度使・郭子儀がこれを撃退した。 郭子儀は、勝ちに乗じて静辺軍を抜いた。大同兵馬使・薛忠義が静辺軍を襲撃した。郭子儀は、左兵馬使・李光弼、右兵馬使・高濬、 左武鋒使・僕固懐恩、右武鋒使・渾釈之らに逆襲させ、これを大いに破った。 その騎兵七千を穴埋めにした。 進軍して雲中を包囲した。別将・公孫瓊巖に二千騎を与えて馬邑を攻撃させ、これを抜き、 東?関を開いた。
  甲辰、郭子儀に御史大夫を加えた。 僕固懐恩は、哥濫抜延の曾孫であり、代々金微都督となっていた。 渾釈之は渾部の酋長で、代々皋蘭都督となっていた。
  さて、顔杲卿は起兵を率い、参軍・馮虔、前真定令・賈?、藁城尉・崔安石、 郡人・?万徳、内丘丞・張通幽らはみな、謀略に参与した。また、使者を派遣して太原尹の王承業と密かに 呼応した。顔真卿は、杲卿の甥の盧逖を平原から派遣して密かに杲卿に告げた。 「連合して安禄山の帰路を断とう。そうすれば、連中の西進の謀略が緩くなる。」
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5. 李光弼の進撃






 この時、安禄山はその金吾将軍・高?を、徴兵のため幽州へ派遣した。彼がまだ幽州から帰ってくる前に、 顔杲卿は、安禄山から兵卒たちを饗応するよう命じられたと言い繕って、李欽湊を士卒ごと呼び寄せた。
  丙午薄暮、欽湊がやってくると、顔杲卿の命令を受けた袁?謙と馮虔らが酒や妓女、 楽団を連れて出向いて、彼らをねぎらった。士卒たちまで大いに酔ったのを見計らい、李欽湊の首を斬った。 その武装兵は収容し、全員縛り上げて翌日、これを斬った。井?の民は全員解散させた。
  しばらくして、高?が幽州から帰って来て藁城へ到着した。顔杲卿は馮虔を派遣して これを捕らえた。  南境からは、何千年が東京から来たと報告があった。 崔安石と?万徳が醴泉駅まで駆けつけて何千年を出迎え、これもまた捕らえた。 その日の内に郡下まで連行した。
  何千年は顔杲卿に言った。
  「今、太守は王室のために力を尽くそうとしている。既にその初めは善かったのだから、 終わりを慎むべきである。この郡は、募集に応じて烏合したばかり。この兵力で敵に臨むのは難しい。 だから溝を深く、塁を高くして争ってはならない。 朔方軍が到着するのを待って、力を併せて共に進軍し、檄文を趙・魏に伝え、燕・薊の要膂を断て。 今、更に、 『李光弼が歩騎一万を率いて井?へ出た。』  と宣伝し、その上で張献誠へ使者を派遣して説得する。  『足下が率いる連隊兵の多くは、堅い鎧や鋭利な武器がない。これでは剽悍な山西の兵とは戦えないぞ』  と。張献誠は必ずや包囲を解いて逃げ出す。これもまた、一奇策だ。」顔杲卿は悦び、その策を用いた。張献誠は、果たして逃げ去り、その連隊兵は潰れた。 顔杲卿は使者を出して彼らを饒陽城へ入れ、 将士を慰労した。
  崔安石らに諸軍を回って宣伝させた。   「大軍が既に井?を下した。朝夕にでも到着し、まず河北諸軍を平定するぞ。 早く降伏する者は賞するが、遅れる者は誅するぞ!」
ここにおいて、河北の諸軍は響きに応じ、およそ十七軍が朝廷へ帰順した。 その兵力は合計二十余万。対して安禄山へ附いていた者は、ただ范陽・盧龍・密雲・漁陽・汲・?の 六郡だけだった。顔杲卿はまた、范陽に使者を派遣して賈循を招き、 陜城の馬燧が賈循を説得した。   「安禄山は恩に叛いた悖逆の人間。洛陽を得るのは難しく、遂には夷滅されてしまうのが落ちだ。 公がもし命令に従わない諸将を誅殺して范陽を以て国へ帰順し、 賊軍の根本を傾けたら、これは不世の功績だぞ。」 賈循はこれに同意したが、なお躊躇して実行しなかった。別将の牛潤


顔 杲卿(がん こうけい、天授3年(692年) - 天宝15載1月8日(756
年2月12日))は、唐代の官吏・忠臣。字はマ。本貫は琅邪郡臨沂
県。顔真卿とは五世の前の男系祖先を同じくする。北斉の学者の顔之
推の五世孫にあたる。子に顔泉明・顔季明・顔威明らがいる
容がこれを知り、安禄山へ報告した。安禄山は、朝陽に賈循を呼びに行かせた。 朝陽が范陽へ到着すると、賈循と内密の話をすると人払いさせて、 壮士に絞め殺させた。その一族は皆殺しにした。別将の牛廷?を 知范陽軍事とした。史思明と李立節は蕃・漢の歩騎万人を率いて博陵・常山を攻撃した。馬燧は西山へ逃げこんだ。 隠者の徐遇が匿ってくれたので、免れることができた。
  かつて、安禄山は自ら将となって潼関を攻撃しようとしていたが、新安まで来たとき、 河北で変事が起こったと聞いて、引き返した。
  蔡希徳が兵一万人を率いて河内から北上して常山を攻撃した。
  この年、吐蕃の王・ティデツクツェンが薨御した。子のティソン・デツェンが吐蕃帝国王に立った。




 李光弼の進撃

至徳元年(756)   ―――――――――――――――――
正月
  15日、安禄山は大燕皇帝と自称し、聖武と改元した。 達奚cを侍中とし、張通儒を中書令とし、高尚と厳荘を中書侍郎とした。李随がケイ陽に到着した。数万の兵力である。
  丙辰、李随を河 南節度使とし、前の高要尉・許遠を?陽太守兼防禦使とした。 濮陽の客尚衡が起兵して安禄山を討った。郡人王栖曜を衙前総管として、済陰を攻めて抜いた。 安禄山の将の?超然を殺した。顔杲卿が、その子の泉明、賈?、?万徳を使者として、長安へ李欽湊の首及び何千年・高?の 身柄を届けようとすると、張通幽が泣いて請うた。 「通幽の兄(通儒)は賊に陥りました。泉明と共に行き、宗族を救いたいのです。」顔杲卿はこれを哀れんで、許した。 一行が太原へ到着すると、張通幽は王承業へ頼ろうと考え、彼に泉明らを抑留させることを教え、 更に功績を自分が独占して 顔杲卿を譏った上表文を書き、別の使者を長安へ派遣して献上した。
  顔杲卿は、起兵してまだ八日で、守備はまだ完成していなかった。 そこへ、史思明と蔡希徳が兵を率いて 城下へ進軍してきた。  顔杲卿は王承業に急を告げた。王承業は既に彼の功績を盗んでいたので、 城が陥落することを望み、兵を擁して救援しなかった。 顔杲卿は昼夜拒戦したが、兵糧も矢も尽きた。    

顔 真卿(がん しんけい、709年(景龍3年) - 785年(貞元元年))は、
唐代の政治家・書家。字は清臣。本貫は琅邪郡臨沂県。中国史でも
屈指の忠臣とされ、また当代随一の学者・芸術家としても知られる。
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壬戌    城は陥落した。賊兵は暴行に走り、一万余人を殺した。顔杲卿及び袁履謙を捕らえて 洛陽へ送った。王承業の使者が長安へ到着すると、玄宗皇帝は大いに喜んだ。 王承業を羽林大将軍に任命し、その麾下で官爵を受けた者は百を以て数えた。 顔杲卿は衛尉卿となった。この朝命が到達する前に、常山は陥落した。顔杲卿が洛陽へ到着すると、安禄山は彼の罪を数え上げて言った。 「汝は范陽の戸曹だったのに、朕が奏上して判官としてやり、数年の内に太守になったのではないか。 汝を大切にして遣ったのに、何で造反したのか?」 顔杲卿は目を剥いて罵った。
  「汝こそ、もと営州で羊を狩っていた羯の奴隷ではないか。天子が汝を三道節度使に抜擢した。 恩幸は並び無く、汝を何も傷つけていないのに、どうして造反したのか? 私は代々大唐の臣下で、禄も位も皆、大唐から貰った物。汝が奏してくれたけれども、どうして汝に従って 造反できようか!私は国のために賊を討ったのだ。汝を斬れなかったのが恨めしい。 それを何で造反という?誇大妄想の羯狗、私を殺せ!」 安禄山は大いに怒り、袁履謙らとともに縛り上げて中橋の柱へ吊した。 顔杲卿と袁履謙は死ぬまで賊を罵り続けた。 顔氏一門は、三十余人が刀鋸で殺された。
  史思明、李立節、蔡希徳は常山に勝った後、兵を率いて従わない諸郡を討った。 その通過する場所では残虐の限りを尽くした。ここにおいて、?・広平・鉅鹿・趙・上谷・博陵・文安 ・魏・信都などは再び燕軍(安禄山軍)の手に落ちた。饒陽太守・盧全誠はひとり従わなかったので、史思明らはこれを包囲した。河間司法李奐が七千を率い、景城長史・ 李?はその子の李祀に八千を与えて救援に向かったが、どちらも史思明に敗北した。
  玄宗皇帝は郭子儀へ命じた。「雲中の包囲を解いて朔方へ戻り、兵を増発して東進し東京を取れ。また、良将一人を選んで兵を与え、 先に井?へ出して河北を定めよ。」 郭子儀は、李光弼を推薦した。
癸亥   李光弼を河東節度使とし、朔方の兵1万人を分けてこれに与えた。
甲子  哥舒翰へ左僕射・同平章事を加えた。他の官職は元のままだった。
乙丑  安禄山がその子の安慶緒へ潼関を襲撃させた。哥舒翰がこれを撃退。

2月丙戌  李光弼へ魏郡太守・河北道采訪使を加えた。燕の史思明らが饒陽を包囲して二十九日しても落ちなかった。 李光弼は蕃・漢の歩騎万余人、太原の弩手三千人を率いて井?へ出た。
己亥  李光弼は常山へ到着した。常山の連隊兵三千人が胡兵を殺して安思義を捕らえ、降伏した。 李光弼は、安思義に言った。 「汝は殺されて当然だと思うか?」 安思義は答えなかった。李光弼は言った。「汝は戦争をして長いが、我が軍を見て、史思明に勝てると思うか? 今、我らのために計略を立てられるかな?お前の 策が採用できるなら、殺さずにいてやる。」 安思義は言った。「大夫の士馬は遠来で疲弊しています。早々に大敵と戦えば、勝つのは容易ではありません。 まずは軍を入城させて防備を固め、先に勝算を立ててから出兵することです。 胡騎は勢い鋭いといえども、持続力がありません。利を得られなければ、意気阻喪してしまいます。 この時にこそ図るべきです。史思明は今、饒陽にいます。ここから二百里も離れていませ

ん。 昨暮に羽書を出したので、その先鋒を計るに、 来晨には必ずやって来ます。そして、大軍が後に続いてくるのです。 ここに留まろうと思ってはいけません。」 李光弼は悦び、そのいましめを解いて軍を移し、入城した。
  史思明は、常山が陥落したと聞いて、たちどころに饒陽の包囲を解いた。翌日の未旦、 先鋒は既に到着し、史思明が後に続いた。合計2万。直接城下へ進軍した。李光弼は歩兵五千を東門から出して戦った。燕軍は門を守って退却しなかった。 李光弼は五百の弩へ城上から一斉に発射させた。燕軍は少し退却した。そこで 李光弼は弩手千人を四隊に分けて矢を発次々と発射させた。 燕軍は対抗できず、軍を収めて逃げた。李光弼は五千を出兵して道南に槍城をなした。呼タ水を挟んで布陣した。燕軍は しばしば騎兵で戦いを挑んだが、李光弼の兵はこれを射た。人馬の大半が矢に当たった。 そこで賊軍は退却してしばらく休み、歩兵を待った。


李 光弼(り こうひつ、景龍2年(708年) - 広徳2年7月14日(764年8
月15日))は、唐中期の武将。営州柳城 (遼寧省朝陽県) の人。諡は
武穆。契丹の後裔。騎射軍略にすぐれ,天宝 14 (755) 年安史の乱が
起ると唐朝に重用され,河北各地で奮戦,上元1 (760) 年太尉兼中
書令となり,郭子儀に代って朔方節度使となった。次いで天下兵馬都
元帥として乱の鎮圧に尽した。世に「李郭」と併称され,中興の戦功第
一とうたわれた。臨淮王に封じられ,死後,太保を贈られた。
郭 子儀(かく しぎ、神功元年(697年) - 建中2年6月14日(781年7
月9日))は、中国の唐朝に仕えた軍人・政治家。玄宗・粛宗・代宗・
徳宗の4代に仕えた。安史の乱で大功を立て、以後よく異民族の侵入
を防いだ。盛唐・中唐期を代表する名将。第一等の功績をあげたが,
宦官に排斥されて兵権を解かれ,不遇の地位におかれた。しかしやがて
代宗朝になると再び登用され,僕固懐恩が反して吐蕃 (とばん) ,ウイグ
ルの軍とともに 30万の兵力で侵入すると,その中心兵力の吐蕃を大敗
させ,唐朝を危機から救った。大功臣として「尚父」の号を賜わり,太
尉,中書令,実封 2000戸にいたった。
史 思明(し しめい)は、唐代の軍人。燕の第3代皇帝。
突厥とソグド人の混血出身で、安禄山と同世代で同郷だったため親しい
仲にあった。また、自身も6つの言語を解し教養に通じる人物であったた
め、次第に頭角を現していく。幽州節度使の部下であったときに戦功を
挙げ、天宝11載(752年)には安禄山の配下となった。
至徳元載(756年)に安禄山が反乱を起こすと、河北で軍を率いて戦
い、李光弼や顔真卿率いる唐軍と戦った(安史の乱)。しかし、聖武2年
(757年)に安禄山の次子の安慶緒が、父を殺害するとその後を継いで
燕の皇帝と称した。史思明はこれに反発し、范陽に帰って自立。やがて
唐に降伏するも、粛宗や彼に近い要人達が自分の殺害を計画している
ことを知ると降伏を撤回し、天成3年(759年)3月、洛陽の安慶緒を攻
め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。だが、順天3年(761
年)、末子の史朝清を後継ぎにしようとしたために長男の史朝義によって
殺された。
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6. 雍丘の戦い









  村民が李光弼に報告した。「賊の歩兵五千が饒陽から来ました。昼夜兼行して百七十里を進軍し、 九門の南の逢壁にて小休止しています。」 李光弼は、歩騎各々二千を派遣した。彼らは旗や軍鼓を隠してひっそりと進んだ。 逢壁へ着くと、賊軍は食事の最中だった。一気に襲撃して皆殺しとした。
  史思明はこれを聞いて勢いを失い、退いて九門へ入った。この時、常山九県のうち、七県は大唐軍へ附いていた。ただ、九門、藁城だけが燕軍に支配されていた。 李光弼は裨将・張奉璋へ五百の兵を与えて石邑を守らせ、 他は全部三百人で守らせた。




雍丘の戦い
  至徳元年(756)――――――――――――――――――
2月
  玄宗皇帝は、呉王・李祇を霊昌太守・河南都知兵馬使とした。 賈賁は二千の衆を擁して前に雍丘へ至った。これ以前に、?郡太守・楊萬石が郡を以て安禄山へ降伏、真源令の河東の張巡へ長史となって 燕軍を迎え入れるよう迫った。 張巡は真源へ至ると、吏民を率いて玄元皇帝廟にて哭し、討賊の起兵をした。 吏民数千人が喜んで従う。張巡は兵千人を厳選して西進し、 雍丘へ至り、賈賁と合流した。かつて、雍丘令・令孤潮は県を以て燕軍へ降伏した。燕軍は彼を将として襄邑にて 淮陽の救援軍を東撃させてこれを破った。百余人を捕らえ、雍丘に抑留した。これを殺す前に、李庭望のもとへ 出向いて会見した。淮陽軍は遂に守者を殺した。潮は妻子を棄てて逃げた。だから賈賁はその間に 雍丘に入れたのだ。令孤潮は燕の精鋭兵を率いて雍丘を攻撃した。賈賁は出陣して戦ったが、敗北して死んだ。 張巡は力戦して燕軍を撃退する。そこで賈賁の部下も吸収して、 自ら呉王の先鋒使と称する。
3月
  乙卯、令孤潮は賊将・李懐仙、楊朝宗、謝元同ら四万余の兵力で、再び城下へ進軍した。 衆は懼れ、確固たる戦意がなかった。張巡は言った。「賊軍は精鋭だから、我らを軽く見ている。今、出撃してその不意を撃てば、奴らは必ず驚き潰れる。 賊の勢いをまず挫けば、城を守ることができるぞ。」 そして、千人を率いて城へ乗り入れた。 自ら千人を率いて数隊に分け、門を開いて突撃した。 張巡は士卒に率先して燕軍へ飛び込んだ。人馬は蹴散らされ、燕軍は遂に退いた。翌日、燕軍は再び城を攻めた。城を包囲するように百の台を設置し、城外の防御施設は全て壊した。 張巡は城の上に木の柵を立てて、これを拒んだ。燕軍は蟻のように城壁にへばりついてよじ登った。 張巡は油で湿らせた藁束を燃え上がらせて投げ降ろしたので、 燕兵は登れなかった。 張巡は、時には燕軍の隙を窺って出兵して攻撃し、あるいは夜襲を掛けて、 敵陣を潰した。
  六十余日で、大小三百余戦。大唐官軍は食事中も鎧を脱がず、傷も癒えぬ間に再び戦った。燕軍は 遂に敗走した。張巡は勝ちに乗じて追撃し、胡兵二千人を捕らえて帰った。 軍声は大いに振るった。





  さて、哥舒翰は、もともと安禄山らと反目していた。そこで、人を使って安禄山が 安思順へ遣った手紙をでっち上げ、関門にて捕らえて献上した。 かつ、安思順の罪七箇条を数え上げて、これを誅殺するよう請うた。
丙辰  安思順及び弟の太僕卿・元貞は有罪となって死刑となった。 家族は嶺外へ移された。楊国忠は彼らを救えなかった。これによって、始めて哥舒翰を畏れた。郭子儀が朔方へ到着すると、ますます精兵を選んだ。
戊午  郭子儀軍は代へ進軍した。
壬午  河東節度使・李光弼を范陽長史・河北節度使とした。 顔真卿に河北采訪使を加えた。顔真卿は、張澹を支度とした。これより先、清河から李萼がやって来た。年は二十余歳。彼は、 郡人のために顔真卿へ師団を請うて、言った。 「公は大義を首唱し、河北諸郡は公のことを長城とも恃んでいます。今、公の西隣りの清河には、 国家が平日江・淮・河南の銭帛をかき集めています。これは北軍へ支給されるもので、 『天下の北庫』と呼ばれています。今、ここには布三百余万匹、帛八十余万匹、銭三十余万緡、 糧三十万斗があります。昔、カパガン可汗を討った時、その武器は清河庫へ貯めました。 それが今、五十余万事あります。清河の戸は七万、人口は十万余。計算しますと、財産は平原の三倍、 兵力は平原の倍です。公が士卒を差し向け、これを慰撫して領有し、二郡を腹心とすれば、 他の郡は四肢のようなもの。意のままに使えます。」 これに、答えて、顔真卿は言った。 「平原の兵は結集したばかり。まだ訓練もしていない。これではここを守るだけでもおぼつかないのに、 なんで隣を構う余力が有ろうか!しかしながら、もしも君の請願を許諾するなら、 誰を将にすれば良いかな?」
  「清河が公への請願に僕を派遣したのは、清河の力が足りないので敵を
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撃退する為に公の軍を 借りようというのではありません。ただ大賢の明義を見るためです。今、御意向を窺うに、決意の思いがありません。 僕がこれ以上何を言いましょうか!」   顔真卿は、これを奇として、兵を与えようと思った。しかし衆は、李萼が年少で敵を軽視しているので、 いたずらに兵を分け与えても、絶対失敗すると言う。 顔真卿はやむを得ず、これを断った。
  李萼は館へ着くと、再び書を書いて顔真卿を説得した。 「清河が逆を去って順に就き、粟帛器械を軍資として献上しようと言うのに、公は納めもしないでこれを疑う。 僕が帰った後、清河が孤立できなければ、必ずどこかの麾下へ入ります。そして公の強敵になってしまっても、 公は後悔なさいませんか?」  顔真卿は大いに驚き、即座にその館へ出向いて六千の兵を貸した。 郡境まで送っていって、手を執って別れる。その時、顔真卿は問うた。 「兵を連れていったら、君はどうするのかな?」   「朝廷が程千里へ精兵10万を与えて賊を討つと聞きます。しかし、賊が険に依ってこれを拒めば、 前進できません。今、兵を率いてまず魏郡を討ち、安禄山の任命した太守・袁知泰を捕らえ、旧太守・司馬垂を もって治めさせます。それから兵を分けて、程千里の軍を出して、彼らへ汲・?以北幽陵へ至るまでの 降らない郡県を討たせます。平原・清河が諸同盟兵を率いれば、兵力は10万。 孟津へ南臨し、兵を分けて河沿いの諸要害に依って守り、燕軍の逃げ道を抑えます。 東討する官軍は20万を下らず、西へ向かう河南の義兵もまた10万を下りません。 公は防御を固めて戦わないよう朝廷へ上表してください。 ひと月と経たぬうちに賊軍は必ず内部から崩壊して同士討ちを始めます。」 「善きことかな!」 顔真卿は録事参軍・李擇交及び平原令・范冬馥にその兵を与え、清河の兵四千及び博平の兵千人と 合流して堂邑の西南へ布陣させた。袁知泰は、その将・白嗣恭らへ2万を与えて攻め寄せた。三軍の兵は一日中力戦して燕軍は大敗した。 万余級を斬り、千余人を捕らえ、馬千匹と甚だ多くの軍資を得た。
  袁知泰は汲郡へ逃げ、遂に燕軍に勝ち、軍声は大いに振るった。
  この時、北海太守・賀蘭進明もまた起兵した。顔真卿は、書面を遣って合力のため呼び寄せた。 賀蘭進明は歩騎五千で河を渡った。顔真卿は兵を並べてこれを迎え、共に拱手して馬上で哭いた。 兵卒たちは感動した。
  賀蘭進明は平原城南へ布陣し、士馬を休養させた。顔真卿は事ごとに彼と相談したので、 軍権は次第に賀蘭進明へ移っていったが、顔真卿は厭わなかった。
  顔真卿は、堂邑の功績も賀蘭進明へ譲った。賀蘭進明は意のままに上奏文を書いた。 勅が下って、賀蘭進明に河北招討使が加えられたが、擇交や冬馥は僅かしか進級せず、 清河・博平で功績を立てた者はみな、記録されなかった。

  賀蘭進明は信都郡を攻撃したが、長い間勝てなかった。録事参軍の長安の第五gが金帛を惜しまずに兵を募るよう 賀蘭進明へ勧め、遂にこれに勝った。

賀蘭進明,鮮卑族人,唐代詩人。
賀蘭進明好古博雅,能詩善文。開元十六年虞咸榜進士,曾官主客
員外郎,?官信安太守。

安史之亂爆發,擔任北海(山東省青州市)太守,因城守無績效,遭
免職,後赴肅宗行在靈武,改御史大夫、河南節度使。宰相房カン素
與賀蘭進明不和,遂薦任許叔冀為河南都知兵馬使,以牽制新任河
南節度使兼御史大夫賀蘭進明。

至コ元載(756年)十月,賀蘭進明向肅宗讒毀房?「此雖於聖皇似
忠,於陛下非忠也」,肅宗逐漸疏遠房カン。此時許叔冀駐守?郡,尚
衡駐守彭城(今江蘇徐州),賀蘭進明代替嗣?王李巨駐守臨淮(今江
蘇??北)。至コ二載(757年)困守在?陽的張巡派遣南霽雲率三十名
騎兵突圍,向賀蘭進明借兵,當時進明受到許叔冀牽制,又懼張巡
功高於己,不願出兵解圍。南霽雲離去時抽一箭射中佛寺浮圖,發
誓日後要殺賀蘭進明。八月,朝廷任命張鎬爲河南節度使,替代賀
蘭進明。十月,張鎬軍至,?陽已陷三日。
乾元元年(758年) 六月房カン因賀蘭進明譖,被貶為路州刺史。乾元
二年(759年)十一月,第五g因作乾元錢、重輪錢,與開元錢三品同
行,導致民間盜鑄盛行,穀價騰踴,餓殍遍野,貶忠州(今四川忠
縣)長史,賀蘭進明因與第五g朋黨,貶為?州(今四川?江)員外司
馬。後不知所終。《全唐詩》存其詩七首。
第五 g(だいご き、Diwu Qi、712年/713年 ? 782年9月19日)は、中国唐後期の政治家・財政家。字は禹珪。京兆長安出身。幼い頃両親を亡くし、兄の第五華の下で学問を修め、富国強兵の術をもって自任する。玄宗皇帝時代、天宝年間(742年 - 756年)の初め韋堅に仕えたが、韋堅が失脚するとしばらく野に下る。のち須江県(浙江省)の丞となり、太守の賀蘭進明に認められた。755年安禄山が乱を起こすと、賀蘭進明が北海郡の太守に転ずるのに従い、録事参軍に任命された。戦功の乏しい賀蘭進明が玄宗の叱責を受けるに及び、第五gは惜しみなく金を使って勇士を集めるよう賀蘭進明に献策し、その兵力をもって安禄山に奪われた諸郡を奪回した。
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7. 郭子儀と李光弼









郭子儀と李光弼

至徳元年(756)   ――――――――――――――――――
3月  
   李光弼と史思明は四十余日対峙した。史思明は常山の糧道を断った。 城中は草が乏しく、馬はむしろを食べる有様だった。そこで李光弼は車五百乗で石邑へ赴き、草を取った。 将も車もみな武装し、弩手千人が護衛して方陣をなして進んだので、燕軍は草を奪えなかった。
  蔡希徳が兵を率いて石邑を攻めたが、張奉璋が撃退した。李光弼は郭子儀へ使者を派遣して、急を告げた。 郭子儀は兵を率いて井ケイから出た。
4月壬辰  常山へ至り、李光弼と合流。これで蕃・漢の歩騎は合計十余万になった。
甲午  九門城南にて、郭子儀、李光弼と史思明が戦い、史思明は大敗した。史思明は敗残兵をかき集めて趙郡へ逃げた。蔡希徳は鉅鹿へ逃げた。 史思明は趙郡から博陵へ行った。この時、博陵はすでに官軍に降伏していた。 史思明は、郡官を皆殺しにした。河朔の民は賊の残暴に苦しみ、至る所で屯を結んだ。 多いところでは2万人。少ないところでも1万人はいた。各々陣営を為して燕軍を拒んだ。 郭子儀・李光弼の軍が来ると、彼らは争って出頭した。
庚子  李光弼軍は趙郡を攻めた。一日で城は降伏した。士卒の多くは、虜から掠められた民だった。 李光弼は城門に坐り、捕虜を収めると彼らを全員釈放したので、民は大いに悦んだ。 郭子儀は四千人を生け捕ったが、これを皆捨てた。 安禄山の太守・郭献?を斬った。李光弼は進軍して博陵を包囲した。十日経っても抜けなかった。そこで兵を退いて恒陽へ帰り、 兵糧を補給した。
  この時、安禄山は、平盧節度使・呂知晦へ安東副大都護・夫蒙霊?を誘い出させて、これを殺した。 平盧遊?使の武陟の劉客奴、先鋒使・董秦及び安東将・王玄志が共謀して呂知晦を討ち誅した。 彼らは顔真卿のもとへ使者を派遣してこれを伝え、范陽を取ることで罪を償うことを請うた。 顔真卿は、判官・賈載へ兵糧と戦士衣を届けさせて、これを助けた。この時、顔真卿にはただ一子しかいなかった。 名は頗。僅かに十余歳だったが、これを客奴へ人質とした。朝廷はこれを聞くと、客奴を平盧節度使として正臣の名を賜り、 王玄志を安東副大都護、董秦を平盧兵馬使とした。南陽節度使・魯Qが?水の南へ柵を立てた。 安禄山の将・武令c、畢思?がこれを攻める。
5月
  丁巳、魯Qの軍は潰滅し、逃げて南陽を保った。燕軍は、 これを包囲する。太常卿・張ジは夷陵太守の?王・李巨に勇略があると推薦した。 玄宗皇帝は呉王・李祇を呼び戻して太僕卿とし、李巨を陳留・?郡太守・河南節度使とし、 嶺南節度使・何履光、黔中節度使・趙国珍、南陽節度使・魯Qを配下にして指揮させた。
戊辰  李巨は兵を率いて藍田から出て南陽へ赴いた。燕軍はこれを聞き、包囲を解いて逃げた。

  燕軍の令狐潮が再び兵を率いて雍丘を攻撃した。 令孤潮と張巡は古馴染みだった。城下にて、まるで平生のように互いの苦労をねぎらい合った。 そのまま、令孤潮は張巡へ説いて言った。  「天下の大事は去った。足下は一体誰のために、危城を堅守するのか?」
  張巡は言った。 「足下は平生忠義を以て自認していたが、卿の挙動のどこに忠義があるのか!」令孤潮は慚愧して退いた。 郭子儀、李光弼が常山へ帰ると、史思明は敗残兵をかき集め、数万の兵力となって後を追った。 郭子儀は驍騎を選んで、更に戦いを挑む。三日にして行唐へ至ると、燕軍は疲弊して退いた。 郭子儀はこれに乗じて、沙河にて再び撃破した。
  燕の蔡希徳は洛陽へ至った。安禄山は再び歩騎二万を与えて史思明のもとへ北上させる。また、牛延?へ 范陽等の郡兵万余を徴発させて史思明を助ける。合計五万余人で同羅へ至り、 河を引き落とす。
  郭子儀が恒陽へ到着すると、史思明は遅れて到着する。 郭子儀は壕を深く掘り塁を高く積んで待ち受ける。燕軍が来たら守り、去れば追う。 昼は真っ向から戦い、夜は夜襲する。 燕軍は休息もできなかった。
  数日して、郭子儀と李光弼は協議した。「賊は戦いに倦んだ。出て戦うべきだ。」 と。
壬午  嘉山にて戦い、大いにこれを破る。 四万の首級を斬り、千余を捕虜とした。史思明は落馬し、まげを霜に濡らし、足を濡らしながら歩いて逃げる。折れた槍を杖にして陣営へ帰り着き、 博陵へ逃げた。李光弼はこれを包囲して、軍声は大いに振るった。こうして河北十余郡は皆、燕軍の守将を殺して降伏した。 往来する燕兵は、軽騎で隙を窺いながら逃げ、多くは官軍に捕らえられた。 漁陽に家族のいる将士は、動揺せずにはいられなかった。

  安禄山は大いに懼れ、高尚、厳荘を呼び出して、詰って言った。
  「汝等は数年間、万全だと言って朕に造反を唆していたのではないか。ところが今、潼関を守ったままで 数ヶ月も進軍できず、北へ帰る道は閉ざされた。諸軍は四合して、我が所有しているのは、 ?、鄭数州だけだ。どこが万全なのか?お前達は、もう二度と顔を見せるな!」
  高尚と厳荘は懼れ、数日謁見しなかった。田乾真が関下から来て、高尚、厳荘の為に安禄山へ説いた。 「古より帝王が大業を経営する時には、皆、勝敗があったのです。どうして一挙に成功したでしょうか! 今、四方の軍や塁は多いのですが、皆、募兵したばかりの烏合の衆。ろくな訓練も受けておりません。 我ら薊北の剽悍な精鋭兵の敵ではありません。何で深く憂うに足りましょうか! 高尚、厳荘は共に佐命の元勲。陛下が一旦断交したことが諸将に聞こえたら、 誰が懼れずにおれましょうか!もしも上下、心が離れれば、それこそ陛下の危機でございますぞ!」
  安禄山は喜んで言った。「阿浩、お前は朕の心を広げてくれた!」
  即座に高尚と厳荘を呼び出して、酒を置いて宴会を催し、自ら彼等の為に歌を歌い、酒を注ぐ。 そして従来のように扱った。阿浩は、田乾眞の幼名である。

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8. 哥舒翰敗れる









哥舒翰敗れる

至徳元年(756)   ――――――――――――――――――

5月
  安禄山は洛陽を捨てて范陽へ逃げ帰ることを議論したが、計略は未だ決まらなかった。 この時、天下は楊国忠の驕慢放縦が乱を呼んだと考え、歯がみしない者は居なかった。 また、安禄山の起兵が、楊国忠誅殺を名分としていたので、王思禮は密かに哥舒翰をたきつけて、 楊国忠を誅するよう上表させようとした。哥舒翰は応じない。そこで王思禮は言った。 「三十騎で楊国忠をさらってきて、潼関にて殺しましょう。」
  哥舒翰は言った。 「そんなことをすれば、安禄山ではなく、私こそが謀反人になってしまうぞ。」 ある者は楊国忠へ説いた。 「今、朝廷の重兵は全て哥舒翰の手中にあります。哥舒翰がもし軍旗を振って西進したら、 公は何と危ないことでしょうか!」 楊国忠は大いに懼れ、上奏した。 「潼関には大軍がいますが、後続はありません。万一利を失えば、長安の危機です。 監牧の小児三千人を選んで、苑中にて訓練しましょう。」
  玄宗皇帝はこれを許し、剣南軍将・李福徳らへこれを指揮させた。
  楊国忠はまた、1万人を募って覇上に屯営させ、自分と親しい杜乾運を将とした。 上辺は賊を防ぐと言っていたが、実は哥舒翰へ備えたのである。 哥舒翰はこれを聞いて、楊国忠から図られる事を恐れ、覇上の軍を潼関の指揮下へ入れるよう 上表して請うた。
6月癸未
  杜乾運を潼関へ呼びよせ、他にかこつけて斬った。 楊国忠はますます懼れた。そんな折、ある者が告げた。 「陜にいる崔乾祐の兵力は四千に満たず、しかも皆、老弱な兵です。」 そこで玄宗皇帝は潼関へ使者を派遣し、進軍して陜、洛を回復するよう 哥舒翰へ命じ、哥舒翰は上奏した。
  「安禄山は長い間、用兵を習い、今始めて造反したのです。どうして備えを無くしましょうか! これは絶対、老弱兵を囮にして我等を誘い出しているのです。 もしも進軍したら、敵の策にはまります。それに、賊は遠征軍です。 利は速戦にあります。官軍は険阻な地形に依ってこれを迎え撃つのですから、利は堅守にあります。 いわんや、賊軍は残虐な行為で民から憎まれ、兵勢は日々衰えているのです。 そのうち内変も起こりましょう。その時に乗じれば、戦わずして擒にできます。 大切なのは功を成すこと。何で必ずしも速攻に務めましょうか! 今、諸道の徴兵の多くはまだ集結していません。どうかこれを待ってください。」 郭子儀と李光弼もまた上言した。
  「兵を率いて北進し、范陽を取らせて下さい。その巣穴を覆して賊党の妻子を人質に取って招いたら、 賊は必ず内側から潰れます。潼関の大軍は、ただ固守して敵を疲れさせてくれればよいのです。 軽々しく出てはいけません。」 楊国忠は、哥舒翰が自分を謀っているのだと疑い、玄宗皇帝へ言った。 「賊には備えがありません。それなのに哥舒翰は逗留して、好機を失おうとしています。」 玄宗皇帝は同意して、続けざまに中使を派遣し、それらは項背相い望む有様だった。 哥舒翰はやむをえず、胸を撫でて慟哭した。

丙戌  哥舒翰は兵を率いて関を出た。
己丑  霊寶の西原で、燕軍の崔乾祐軍と遭遇した。崔乾祐は、険阻な地形で、これを待った。 南に山が迫り北は河に阻まれた隘道が七十里も続く。
庚寅  大唐官軍は崔乾祐と会戦した。崔乾祐は険所に伏兵を置いていた。
  哥舒翰と田良丘は船を浮かべて流れの中で敵の軍勢を観た。 崔乾祐の兵が少ないのを見て、諸軍へ進軍させる。 王思禮らは精鋭5万を率いて前におり、龍忠らは余兵十万を率いてこれに続く。 哥舒翰は3万の兵力で河北の丘へ登ってこれを望み、 軍鼓を鳴らしてその勢いを助けた。
  崔乾祐が出した兵は1万に足りず、三々五々、星のように散らばっていた。 あるいは疏にあるいは密に、あるいは進みあるいは退く。官軍はこれを望んで笑う。 だが、崔乾祐は精兵を後方へ布陣していた。兵が交戦すると、燕兵はまるで逃げ出したいかのように旗を仰向けに倒した。 官軍は侮って備えもしない。突然、伏兵が飛び出した。燕軍は高い場所から木石を落とす。大勢の人間が撃ち殺された。 道は狭く、士卒は束のようになった。槍や長矛は使いようがない。
  哥舒翰は氈車や駕馬で前駆となり、敵をなぎ倒そうとした。既に昼過ぎ。東風が吹き荒んでいる。 崔乾祐は草を積んだ車数十台で氈車の行く手を塞ぎ、火を点けて燃やした。 煙が立ち籠もったところでは、官軍は目を開くこともできず、 妄りに相打ちをしてしまった。燕軍が煙の中にいると騒ぐ者がいたので、弓弩が集まって 煙へ向かって射掛けた。日が暮れる頃は矢が尽きてしまったが、 燕軍の所在は判らない。崔乾祐は、同羅兵の精騎を南山を過ぎた所から出した。彼等は官軍の後方へ出て、これを攻撃する。 官軍は大混乱に陥って対応もできず、ここにおいて大敗した。 あるいは鎧を捨てて山谷へ鼠のように逃げ込み、あるいは押し合って河の中へ落ち込み溺れ死ぬ。 叫び声は天地をどよめかせた。燕軍は勝ちに乗じて差し迫る。後軍は前軍が敗れるのを見て、皆、自ら潰れた。河北軍は、これを望んでまた潰れた。 哥舒翰は麾下数百騎と共に逃げ出し、 首陽山から西に河を渡って関へ入る。
  潼関の外には先に三つの塹壕が掘ってあった。皆、広さは二丈、深さは一丈。人馬はその穴へ落ち込み、 穴はたちまち満たされてしまった。残りの衆は、それを踏み越えて逃げる。 潼関へ入ることのできた士卒は僅かに八千余人だった。
辛卯  燕の崔乾祐は潼関へ進攻し、これに勝つ。 哥舒翰は関西駅へ到着すると、牌を掲げて敗残兵を収容し、再び潼関を守ろうとした。 火抜帰仁は百余騎を以て駅を囲み入って哥舒翰へ言った。 「賊が来ました。公はどうか乗馬してください。」 哥舒翰は乗馬して駅を出た。火抜帰仁は衆を率い、叩頭して言った。 「公は20万の大軍を一戦でなくしてしまいました。何の面目あって天子へまみえるのですか! それに、公は高仙芝、封常清を見なかったのですか?どうか東へ向かってください。」 哥舒翰が断ると、火抜帰仁は彼の足を毛で馬腹へ縛り付け、従わない諸将は全て捕らえて東へ向かった。 燕将・田乾眞と遭遇し、遂にこれに降伏する。 田乾眞は、哥舒翰と火抜帰仁を共に洛陽へ送った。
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9. 玄宗西走す









 玄宗西走す

至徳元年(756)   ――――――――――――――――――

6月
  安禄山は哥舒翰へ問うた。 「汝はいつも朕を軽視していた。今はどうだ?」 哥舒翰は地に伏して答えた。「臣は開き盲で、聖人が判りませんでした。今、天下は未だ平定されていません。李光弼は常山にあり、 李祇は東平に、魯Qは南陽にいます。陛下が臣を留めて尺書で彼等を招き寄せれば、 天下はすぐにでも下りましょう。」
  安禄山は大いに喜んで、哥舒翰を司空、同平章事にした。 火抜帰仁は安禄山に対して「汝は主人に叛いた。不忠不義だ。」と覚悟を決めて言った。 そこで安禄山は火抜帰仁を捕らえて、斬った。
  哥舒翰は書を以て諸将を招いたが、皆は返書を書いてこれを責めるだけだった。 安禄山は効果がないことを知り、哥舒翰を苑中へ軟禁した。
  潼関が陥落すると、河東、華陰、馮翊、上洛の防御史は、皆、郡を棄てて逃げだした。 所在の守兵も皆、逃げ散ったのである。潼関が陥落した日、哥舒翰の麾下が来て急を告げた。玄宗皇帝はすぐには謁見せず、 ただ李福徳ら将監牧兵を潼関へ派遣しただけだった。暮れに及んで、 平安火(平常であることを示す合図)が挙がらなかったので、玄宗皇帝は始めて懼れた。

壬辰  宰相・楊国忠を呼び出して謀る。楊国忠は自ら領剣南だったので、安禄山の造反を聞くと即座に副使崔圓へ皇帝の後座所を密かに揃えさせ、 危急の時には逃げ込めるように準備していた。だから、ここに至って蜀への御幸を首唱する。 玄宗皇帝は同意した。
癸巳  楊国忠は朝堂へ百官を集め、恐れて涙を流し、策略を問うた。皆は黙っていて答えない。 楊国忠は言った。   「安禄山の反状を人々が告発してから既に十年、陛下は信じなかった。 今日のことは、宰相の過失ではない。」 そして仗を降ろした。 士民は驚き慌てて走り出したが、行くべき所が判らない。市里は寂れかえった。 楊国忠は韓、コク夫人を入宮させて、玄宗皇帝へ入蜀を勧めた。
甲午  登朝した百官は一、二割もいなかった。玄宗皇帝は勧政楼へ御幸して制を下し、 親征の意思を表明したが、聞く者は誰も信じなかった。 京兆尹の魏方進を御史大夫兼置頓使とする。京兆少尹の霊昌の崔光遠を京兆尹として、西京留守に充てる。 将軍・辺令誠へ宮殿内のことを任せた。剣南節度大使に、急いで鎮へ赴き本道へ皇帝の後座所を 設けさせるよう命じた。
  この日、玄宗皇帝は北内へ移った。 夕方になると、龍武大将軍・陳玄禮へ六軍を整列させ、厚く銭帛を賜下する。閑厩馬九百余匹を選んだが、 他の者は何も知らなかった。

乙未黎明、玄宗皇帝は貴妃姉妹、皇子、妃、主、皇孫、楊国忠、韋見素、魏方進、陳玄禮及び近親の宦官、 宮人達と延秋門を出た。在外の妃、主、皇孫は、皆、これを委ねて去った。玄宗皇帝が左藏を過ぎる時、

楊国忠は焼き払うように請い、「何も、賊の為に守ってやる必要はありません。」 と言った。玄宗皇帝は愁然として 「賊が来て宝物を得られなかったら、必ずや百姓から酷く掠奪する。これは賊へ与えてやった方がよい。 わが赤子をこれ以上苦しめるな。」と諭した。 それでもこの日、まだ登朝する百官もいた。宮門へ至ると時を告げる音は平常通り。三衞もいつも通り警備に立っていた。 ところが、門が開くと宮人が乱れ出てきて、中外が騒がしくなった。玄宗皇帝の居所が判らない。 皆怖くなって、王公、士民は四出して逃げ隠れ、山谷の細民は争って宮禁及び王公の第舎へ入り、金宝を盗む。ある者は驢馬に乗ったまま上殿した。 また、左藏大盈庫を焼き払ったりするものも出たが、崔光遠と辺令誠は人を率いて消火した。また、摂府や県官を募って分守させた。暴徒十数人を殺すと、 騒ぎも漸く静まった。崔光遠はその子を安禄山へ派遣して謁見させた。 辺令誠も管理しているものを献上する。

  玄宗皇帝が便橋を通過する時、楊国忠は橋を焼き払うよう命じた。だが、 玄宗皇帝は 「士庶が各々生きる為に賊から逃げるのだ。どうしてその路を断つのか!」と叱る。内侍監・高力士を留めて、橋を焼こうとしている者を撲滅させてから追い着かせた。
  玄宗皇帝は、宦者・王洛卿を先行させ、郡県へ食糧などの準備を告知させた。食事時に、咸陽の望賢宮へ 到着したが、王洛卿は県令と共に逃げていた。そこで中使を出して食糧を徴発したが、応じる吏民はいなかった。 日は登りきったが、玄宗皇帝はまだ食事ができない。楊国忠が自ら市場で胡餅を買ってきて 献上した。ここにおいて、民は争うように粗末な飯を献上した。 麦や豆が混じっている。誰も献上しなかったのは、玄宗皇帝を憎んでいたのではなく、 自分達の粗末な食べ物を憚っていただけだったのだ。 皇孫達は争うように手掴みで食べ、瞬く間に食べ尽くしてしまい、まだ食べたりない様子だった。 玄宗皇帝は代価を賜下して、これを慰労する。衆は皆哭し、玄宗皇帝もまた泣いた。

  郭従謹という老父が、進言した。
  「安禄山が禍心を内包したのは、一日の事ではありません。また、闕を詣でてその陰謀を 告げる者もいました。しかし、陛下は往々にして彼等を誅し、 奴の姦逆をますます逞しくさせました。結局、陛下が逃げ出すようなことになったのです。 先王が忠良を訪問することに務めてまで聡明を広めたのは、けだし、この為です。 宋mが宰相だった頃は度々直言を進め、おかげで天下が平安だったことを、臣はまだ覚えています。 ところが近年では、朝廷の臣下達は悪いことは口を閉ざし、ただご機嫌を取るために諂ってばかり いるようになりました。ここを以て、闕門の外の事を、陛下は知られなくなったのです。 草野の臣は、ずっと前から今日のようになることを知っていました。ただ、九重は遙かに遠く、 区々たる心を上達させる路がなかったのです。事がここに至らなければ、臣のような人間が、 どうして陛下へ面と向かって訴えることができたでしょうか!」

  これを聞いて、玄宗皇帝は言った。
  「これは朕の不明だ。悔いても及ばない。」
  そして玄宗皇帝は老人を慰諭した。 にわかにして尚食が御膳を挙げてやって来た。玄宗皇帝はまず従官へ賜ってから、その後に食べた。 軍士を村落へ散らして食糧を求めさせたが、 彼等が全員帰ってくる前に出発した。
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10. 楊貴妃絞殺










楊貴妃絞殺


至徳元年(756)   ――――――――――――――――――

6月
  玄宗皇帝の一軍は夜半になろうとする頃、金城へ到着する。県令は逃げていた。県民も皆、身体一つで逃げ出していたので 飲食の器が残っており、士卒は自給できた。
  この時、従者も大勢逃げていた。内侍監・袁思藝もまた逃げ去った。駅の中には灯りもなく、 人々は貴賤も弁じずに寄り添って眠った。王思禮が潼関からやって来て、初めて哥舒翰が捕らわれたことを知った。 王思禮を河西、隴右節度使として、即座に陳へ赴かせ、敗残兵をかき集めて東討を待たせた。
丙申  馬蒐駅へ到着する。将士は飢え疲れ、皆、憤怒した。 陳玄禮は、禍は楊国忠のせいで起こったとして、これを誅しようと思った。そこで東宮の宦官・李輔国を介して、 太子へ伝言した。太子・李亨はすぐには決断できない。
この時、吐蕃の使者二十余人が楊国忠の馬を遮り、食糧がないことを訴えた。 楊国忠が返答する前に、軍士が叫んだ。
「楊国忠と胡虜が造反を謀っているぞ!」
ある者がこれを射て、鞍へ当たった。楊国忠は走って西門の内へ至る。軍士はこれを追って殺し、 身体をバラバラに引き裂いて、その首は槍に突き刺して駅門の外に掲げた。 併せてその子、戸部侍郎・楊喧及び韓国、秦国夫人を殺した。
  「お前達は、何で宰相を殺したのだ!」 御史大夫・魏方進が言った。
  衆はまた、これも殺した。 韋見素は乱を聞いて出てきた所を、乱兵から槌でぶたれた。脳から出た血が地面に流れた。 すると、衆は言った。
  「韋相公を傷つけるな。」
  それで韋見素を救ったので、死なずに済んだ。 軍士は駅を囲んだ。玄宗皇帝は喧噪を利いて外で何が起こっているか問うた。 すると近習は、楊国忠が造反したと答えた。玄宗皇帝は杖をついて駅門から出てきて、軍士を慰労した。 そして隊へ収めようとしたが、軍士は応じない。 玄宗皇帝が高力士へ問わせると、陳玄禮が答えた。
  「楊国忠が謀反したのに、楊貴妃が供奉するのは宜しくありません。どうか陛下、 恩を忍んで法を正してください。」
  玄宗皇帝は「朕が自ら処断する。」と言った。門へ入ると、杖に寄りかかり、 首を傾けて立ちすくんだ。 しばらくして京兆司録・韋諤が言った。

続けて、「今、衆人の怒りは犯しがたいのです。安危はこの時にあります。 どうか陛下、即決してくださいませ!」 叩頭し流血しながら訴えた。
 玄宗皇帝は言った。
 「楊貴妃はいつも朕と共に深宮にいたのに楊国忠の反謀を知るはずはない」   高力士は 「楊貴妃は誠に罪がありません。しかし、将士は既に楊国忠を殺したのです。 それでいて楊貴妃がいつも陛下の左右にいたのでは、どうして安心できましょうか! どうか陛下、ここを重々お考えください。将士が安堵すれば、 陛下も安泰なのです。」と言った。

  玄宗皇帝は、楊貴妃を仏堂へ引き出して縊り殺すよう高力士へ命じた。 屍は輿へ乗せ、駅庭へ運び出す。陳玄禮らを呼び寄せてこれを見せた。 陳玄禮らは甲を取り鎧を脱ぎ、頓首して罪を請う。玄宗皇帝はこれを慰労し、 軍士へよく諭させた。陳元禮らは皆万歳を叫び、再拝して退出する。 ここにおいて始めて隊伍を整えて行進した。韋諤は韋見素の子息である。楊国忠の妻の裴柔とその幼子晞及び?国夫人と夫人の子裴徽は皆逃げ出して陳倉へ至った。 県令の薛景仙は吏士を率いて追捕し、これを誅した。

丁酉  玄宗皇帝が馬蒐を出立しようとした時、朝臣はただ韋見素一人だけだった。 そこで韋諤を御史中丞として、置頓使に充てた。
  将士は皆、言った。  「楊国忠が造反したのに、その将佐は皆蜀にいます。行ってはなりません。」
  あるものは河、隴を請い、ある者は霊武を請い、ある者は太原を請い、ある者は長安へ帰るよう請うた。 上意は入蜀にあったが、衆心に違うことを配慮して、 遂に行く先を言わなかった。 韋諤が言った。  「京へ帰るには、禦賊の備えが必要です。今、兵が少ないので、東へ向かうのは容易ではありません。 一旦扶風へ落ち着いて、それから静かに去就を考えましょう。」
  玄宗皇帝が衆へ尋ねると、衆も同意したので、これに従った。 出発するとき、父老達全員が道を遮って留まることを請い、言った。 「宮闕は陛下の家居、陵寝は陛下の墳墓。今、これを捨ててどこへ行かれるのですか?」

  玄宗皇帝は、これの為に轡をしばらく抑えていたが、後へ残って父老を慰労するよう太子へ命じた。 すると父老は言った。 「至尊が既に留まらなければ、子弟を率いて殿下に従い、東進して賊を破って長安を取ることが、 某等の願いでございます。もし殿下も至尊も蜀へ入ったら、誰を中原の百姓の主君にさせるのですか?」 僅かの間に衆は数千人にも膨れ上がった。 皇太子・李亨は玄宗皇帝とともに随行したかったので民衆に言った。  「至尊が遠く険阻を冒すのだ。私はどうして忍んでまで朝夕に左右から離れることができようか。それに、私は未だ別れの挨拶もしていない。 まずは至尊へ私から直接に言ってから馬の足を止めよう。」
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11. 長安陥落








長安陥落


至徳元年(756)   ――――――――――――――――――

6月
  李亨は涕泣して、西へ行こうとした。すると建寧王・李タンと李輔国が轡を執って諫めた。

「逆胡が闕を犯し、四海は分崩しました。人情に沿わなければ、どうして復興できましょうか! 今、殿下が至尊に従って蜀へ入ったら、それも叶わぬこととなりましょう。 賊兵が桟道を焼き払った時には、中原の地は手を拱いて賊へ授けることになるのです。 人情は一旦離れたら、二度と戻りません。再びここへ還ろうと望んでも、できませんぞ! 今は西北の守辺の兵を収めて、郭子儀、李光弼を河北から呼び寄せ、これと力を併せて逆賊を討つのです。 勝って両京を復し四海を平定し、危うい社稷を安泰にし、壊された宗廟を復興し、宮禁を掃除して至尊を迎えること こそ、 一番の孝ではありませんか!どうして女児のような態度をとられますのか!」


  廣平王・李俶もまた、皇太子・李亨へ留まるよう勧めた。父老は共に皇太子の馬を擁して行かせない。 そこで皇太子・李亨は、李俶を使者として、玄宗皇帝へ伝えさせた。 玄宗皇帝は轡を抑えて皇太子・李亨が来るのを待っていたが、 時間が経っても来ないので偵察を出した。 帰ってきて報告を受けると、玄宗皇帝は「天命だ!」と言った。そこで後軍二千人と飛龍厩馬を分けて皇太子・李亨へ従わせた。そして、将士を諭して言った。
  「皇太子は仁孝で、宗廟を奉じられる人間だ。汝等は、善くこれを補
  佐せよ。」
  また、李俶に次の言葉を皇太子・李亨に伝えるようにと言った。
  「汝は戻って太子に伝えよ。社稷は重く朕はその任に堪えられなかった。西北の諸胡は、 朕が平素から手厚く遇していた。将来、必ずや汝の役に立つだろう。」
  皇太子・李亨は南面して号泣しただけだった。 李?、李俶はどちらも皇太子・李亨の子息である。
己亥  玄宗皇帝は岐山へ到着した。

  「賊の前鋒がやって来た」と、ある者が言ったので、玄宗皇帝は慌ただしく通過し、扶風郡に泊まった。 士卒は去就に迷い始め、往々にして不遜な言葉が流れたが、 陳玄禮は制御できなかった。 そんな折、成都から貢ぎ物の春綏十余万匹が扶風へ届いた。 玄宗皇帝は、これを全て庭へ積み上げさせると、 将士を呼び入れて、軒に臨んで彼等を諭して言った。

  「朕が政務を託す相手を誤ったので、逆胡が造反するに至り、 その矛先を避ける為に遠くまで来た。卿らは皆、突然、朕に随従した為、父母妻子と別れの挨拶もできなかった事を 朕は知っている。ここまで野宿を続け、こんなにも苦労をかけたことには、朕はとても恥じている。蜀への道は険しく 長い。郡県は小さいので、人馬が多すぎたら、あるいは供もできないかもしれない。今、卿らが家へ帰りたければ、 自由にして良い。朕は子、孫、中宮と蜀へ行くにしても、なんとか行き着けるだろう。今日、卿らと訣別するに 当たって、この綏を資糧として分け与えよう。もしも帰って父母や 長安の長老に会ったなら、朕の為に想いを伝えてくれ。各々自愛せよ!」
  そして、涙を零して襟を濡らした。衆は皆、慟哭して言った。
  「臣らの生死は陛下と供にあり、誓って二心はありません!」
  玄宗皇帝は「去就は好きにして良いぞ。」言ったことで、流言はなくなった。
  さて、李亨は留まったけれども、どこへ行けば良いかわからなかった。 廣平王・李俶は言った。
  「日が暮れてきました。ここに駐留してはいけません。衆人は何を望んでいるでしょう?」
  だが、誰も答えない。建寧王・李?が言った。
  「殿下はかつて朔方節度大使でした。将吏は歳時に挨拶に来ましたが、 私はその姓名をほぼ覚えています。今、河西、隴右の衆は皆敗北して賊へ降伏ましたので、 父兄子弟が大勢賊の中にいます。これでは異心が生まれるかも知れません。朔方は道も近く、 士馬も全盛ですし、河西行軍司馬の裴冕がおります。裴冕は衣冠の名族で、絶対二心を抱く人物ではありません。 賊が長安へ入れば、掠奪に励むでしょうから、時間を稼ぐことができます。この機会に速やかにあそこへ赴いて、 徐々に大挙を図る。これが上策です。」

  渭浜へ到着すると、 潼関の敗残兵と遭遇した。誤って賊と認識して戦い、大勢が死傷する。戦後、余兵を収容し、渭水の浅い所を選んで 乗馬のまま渡る。馬を持たぬ者は、涕泣して帰った。李亨は北上し、夜通しで三百里を駆け、士卒は器械を大半失い、 兵数も数百に過ぎなかった。新平太守・薛羽は、郡を棄てて逃げた。皇太子・李亨はこれを斬った。同日、安定へ到着。 李亨が烏氏へ到着すると、彭原太守・李遵が出迎えた。衣と乾飯を献玄宗皇帝する。彭原にて士を募り、数百人を得た。 同日、平涼へ到着。牧馬を閲監して数万匹を得、募兵して五百余人を得た。王思禮が平涼へ到着した。河西の諸胡が乱を 起こしたと聞いて引き返し、行在を詣でる。 初め、河西の諸胡部落は、その都護が皆、哥舒翰へ従って潼関で戦死した と聞いた。だから、争って自立して互いに攻撃したのだった。しかし、都護は実は哥舒翰に従って北岸におり、 戦死していなかった。また、火抜帰仁と共に賊に降伏したわけでもなかった。
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12. 玄宗入蜀・粛宗霊武へ






 一方、玄宗皇帝は、河西兵馬使・周泌を河西節、隴右兵馬使・彭元耀を隴右節度使として、 都護・思結進明らと共に、 これを鎮めて部落を招かせた。 王思禮を行在都知兵馬使とする。
  戊申、扶風の民康景龍等の義勇軍が、燕の宣慰使・薛総を撃ち、二百余級の首を斬った。
  庚戌、陳倉令・薛景仙が賊の守将を殺し、扶風に勝って、これを守った。
  蜀や霊武へ貢献に行く江、淮の使者は、襄陽から上津の道を通り、扶風へ行くと、途中遮る者がいなかった。 これは、皆、薛景仙の功績である。

  さて、安禄山は、玄宗皇帝が西へ逃げ出したとは思わず、使者を派遣して崔乾祐軍を潼関へ留めさせていた。 十日ほどして、孫孝哲へ兵を与えて長安へ入城させる。 張通儒を西京留守、崔光遠を京兆尹とする。安思順へ兵を与えて苑中へ駐屯させ、 関中を鎮める。
  孫孝哲は安禄山から寵任されており、実権を持っていて、 いつも厳荘と権力を争っていた。安禄山は、彼へ関中の諸将を監督させ、 張通儒らは皆、彼の制を受けた。

  孫孝哲は贅沢な人間で、果断に人を殺す。 だから賊党は、彼を恐れていた。
  安禄山は、百官、宦官、宮女らを探すよう命じた。数百人捕らえるごとに、護衛兵を付けて洛陽へ送った。 車駕へ随従した王侯将相の家族が長安に残っていたら、嬰児まで誅殺した。
  陳希烈は、晩年になって寵を失っていたので玄宗皇帝を怨み、張均、張ジと共に賊へ降伏した。 安禄山は、陳希烈、張ジを相として、他の朝士にも皆、官を授けた。

  ここにおいて、燕の勢いは大いに燃え上がった。西は隴を脅かし、南は江、漢を侵し、 北は河北の半ばを奪う。しかしながら賊将は、皆租猛で遠略がなかった。 長安に勝つと、既に大願が成就したと思い、日夜酒に溺れる。女漁りや財宝集めに精を出して、 西進の意欲などなかった。だから玄宗皇帝は危険な目にも会わずに蜀へ入れたし、 皇太子・李亨も追撃の憂き目に会わずに北行できた。




玄宗入蜀・粛宗霊武へ


至徳元年(756)   ――――――――――――――――――

6月

 李光弼は、潼関の陥落を聞くと、博陵の包囲を解いて南下した。 史思明は、後を追う。李光弼は撃って退ける。 郭子儀と共に全兵力を井ケイへ入れる。常山太守・王ホを景城へ留め、 河間の師団へ常山を守らせた。平盧節度使・劉正臣が范陽を襲撃しようとした。だが、到達する前に史思明が兵を率いて逆襲し、 劉正臣は大敗した。妻子を棄てて逃げる。戦死した士卒は七千余人であった。
  顔眞卿は、河北節度使・李光弼が井?から出撃したと聞いた時、 軍を収めて平原へ戻り、李光弼の命令を待った。だが、やがて郭子儀、李光弼が井ケイに戻ったと 聞いたので、ここで始めて顔眞卿が河北の軍事を指揮し始めた。

  皇太子・李亨が平涼へ到達して数日、杜鴻漸、六城水陸運使・魏少遊、崔?、盧簡金、 李涵らが相談して言った。
  「平涼は散地で、屯営する場所ではない。霊武は兵力も兵糧も豊富だ。 もしも太子をここへ迎え入れ、北は諸城兵を収め、西は河、隴の勁騎を発し、 南下して中原を平定したならば、これは万世の功績だ。」

  そこで李涵を使者として、皇太子・李亨へ牋(幅の狭い紙)を奉った。 かつ、朔方の士馬、甲兵、穀帛、軍須の数を献上する。李涵が平涼へ到着すると、 李亨は大いに悦んでこれを迎えた。
  やがて、河西司馬・裴冕が入って御史中丞となり、平涼へ到着して皇太子・李亨へ謁見すると、 彼も皇太子へ朔方へ向かう事を進めた。皇太子はこれに従う。

  杜鴻漸と崔?は、祗少游を後へ残して宿舎や資儲を整備させ、自身は平涼の北境まで太子を出迎えて、 太子に説いた。
  「朔方には、天下の精兵がいます。今、吐蕃とは講和し、ウイグルは帰順し、 四方の軍県は大抵堅守して敵を拒み、復興を待っています。 殿下が今、霊武の兵を管理し、轡を抑えて長躯し、四方へ檄を飛ばして忠義の士を収めれば、 逆賊など物の数ではありません。」
 魏少游は、宮室を盛大に飾り付け、帷帳は全部禁中を模倣し、 膳には山海の珍味を揃えた。
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7月

辛酉  皇太子・李亨が霊武へ到着すると、李亨は珍味等をことごとく片づけさせた。
甲子  玄宗皇帝が普安へ到着した。玄宗皇帝が長安を出発したことは、多くの群臣が知らなかった。 咸陽へ到着すると、高力士へ言った。
  「朝臣で、誰が来て、誰が来ないかな?」
  高力士は言った。
  「張均、張シ゛は陛下の恩を最も深く受けており、公主まで娶っています。彼らは絶対真っ先にやってきます。 人々は皆、『房カンは宰相にするべきだ。』と言っていましたが、陛下は用いませんでした。 その上、安禄山が彼を推薦したことがあります。もしかしたら、来ないかも知れません。」
  玄宗皇帝は「どうなるかは、まだ判らない。」と言った。
  房カンが来ると、玄宗皇帝は張均兄弟の行方を尋ねた。 すると、房カンは答えた。
  「臣と共に来ていたのですが、途中で留まって進みませんでした。 その意向を見るに、腹中に一物ありながら口にできないようでした。」
  玄宗皇帝は高力士を顧みて言った。
  「朕はもとより判っていた。」
  即日、房カンを文部侍郎、同平章事とした。
  話は前後するが、張ジが寧親公主を娶った時、禁中に宅を置くことを許され、 彼への寵愛は比類なかった。陳希烈が退職を求めた時、玄宗皇帝は張ジの宅へ御幸して、 誰を宰相にするべきか問うた。そして、張ジが答える前に、玄宗皇帝はかつて言ったのだった。
  「婿を愛さないはずがないぞ。」 
  張ジは階を降りて拝礼し、舞い踊った。しかし、結局宰相にはしなかった。 それ以来、張ジは怏々とするようになり、玄宗皇帝もまた、それを覚ったのであった。

  その頃、張均、張ジ兄弟及び姚祟の子尚書右丞・姚奕、蕭祟の子の兵部侍郎・蕭華、 韋安石の子の禮部侍郎・韋陟、太常少卿・韋斌は、皆、才望で大官へ至ったのである。 玄宗皇帝はかつて言った。
  「朕が宰相に命じるのは、かつての宰相の子弟のみとしよう。」
  だが、玄宗皇帝は一人も宰相にしなかったのだった。
  裴冕、杜鴻漸らは皇太子・李亨へ牋を献上し、馬蒐での命令を遵守して皇帝位へ即くよう請うた。 李亨は許さない。

  裴冕らは言った。
  「将士は皆、関中の人間です。日夜故郷へ帰ることを思っているのに、 殿下に従って険しい山道を遠くまでやって来たのは、尺寸の功を願っているからです。 もしも彼らが一旦離散したら、再び集めることはできません。どうか殿下、つとめて衆心へ従い、 社稷の為に計ってください!」
  牋は五度献上され、皇太子・李亨はついにこれを許した。 この日、霊武城の南楼に於いて、李亨が即位した。 これが粛宗皇帝である。群臣は躍り上がって喜び、粛走皇帝は流涕して啜り泣いた。 玄宗皇帝を尊んで上皇天帝とし、天下へ恩赦を下して改元した。
  杜鴻漸、崔?を共に知中書舎人事とし、裴冕を中書侍郎、同平章事とする。 関内采訪使を節度使と改め安化を治めさせ、前の蒲関防禦使・盧祟賁をこれに任命する。 陳倉令・薛景仙を扶風太守として防禦使を兼務させる。隴右節度使・郭英乂を天水太守として 防禦使を兼務させた。
  この時、塞上の精鋭兵は、皆、討賊に出ており、余った老弱の兵が辺境を守っていた。 文武官は三十人に満たず、草をかぶせて朝廷を立てた。制度はできたばかりで、武人が驕慢だった。 大将の管祟嗣は朝堂にあって、闕へ背を向けて坐り、気ままに言笑した。 監察御史・李冕がこれを上奏して弾劾し、役人へ下げ渡した。 粛宗皇帝は特にこれを赦し、感嘆して言った。
  「朕に李冕があって、始めて朝廷が尊くなった!」

  十日の間に、帰順する人間が少しずつ増えていった。


 
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13. 粛宗が反撃のために兵慕、体制を整える









 粛宗が反撃のために兵慕、体制を整える


至徳元年(756)   ――――――――――――――――――
7月丁卯  上皇が制を下した。

  「太子の亨を天下兵馬元帥に充て、朔方、河北、平盧節度都使として、 長安、洛陽を奪取させる。御史中丞・裴冕は左庶子を兼務させる。隴西郡司馬・劉秩は試守右庶子とする。 永王・李?は山南東道・嶺南・黔中・江南西道節度都使とし、少府監・竇紹をこれの傅とし、 長沙太守李?を都副大使とする。盛王・李gを廣陵大都督に充て、領江南東路及び淮南・河南等路節度都使とし、 前の江陵都督府長史・劉彙をこれの傅とし、廣陵郡長史・李成式を都副大使とする。 豊王・李?を武威都督に充て、領河西・隴右・安西・北庭等路節度都使とし、 隴西太守の済陰のケ景山をこれの傅とし、都副大使とする。これらの士馬、甲仗、兵糧や兵士への給料は、 全て各路にて工面せよ。その諸路の本の節度使・?王巨らは、従来通り節度使とする。 官属及び本路の郡県官は各々で選び、奏聞せよ。」
  この時、李gも李?も共に閣を出ず、ただ李?だけが鎮へ赴いた。 山南東道節度使を設置し、襄陽等九郡を領有させる。
  五府経略使を嶺南節度へ昇格させ、南海等二十二郡を領有させる。五溪経略使を黔南節度へ昇格させ、 黔中等諸郡を領有させる。江南を東西二道へ分け、 東道は餘杭を西道は豫章等諸郡を領有させた。
  話は前後するが、四方が潼関の陥落を聞いた時、 玄宗上皇の所在地を知る者がいなかったが、この制が降りるに及んで 始めて乗輿の在処が判った。

  安禄山は命令して、孫孝哲が祟仁坊にて霍国長公主及び王妃、?馬らを殺す。その心臓をえぐり取って、 安慶宗を祭った。
  楊国忠一族、高力士の一党及び普段から安禄山が憎んでいた者も、全員殺した。その総数八十三人。 鉄の棒へ、その頭蓋骨を掲げたりしたので、 流れる血が街を満たした。
  己巳、また、皇孫及び郡、県主二十余人を殺した。

庚午  上皇が巴西へ到着した。 太守の崔渙が出迎える。上皇は彼と語って悦んだ。 房?もまた彼を推薦したので、即日、門下侍郎、同平章事を拝受した。
  京兆の李泌は幼い頃から才敏で評判だったので、玄宗上皇は彼を忠王の学友としていた。 忠王が太子となった時、李泌は既に長じていた。玄宗上皇は彼を官へ就かせたかったが、できなかった。 彼は、太子とは友達づきあいをして、太子は彼をいつも「先生」と呼んでいた。
  楊国忠は彼を憎み、地方へ移すよう上奏した。後、隠居することができて、穎陽に住んだ。 粛宗皇帝が馬蒐から北行すると、使者を派遣してこれを呼び、霊武にて謁見する。 粛宗皇帝は大いに喜び、出るときには轡を並べ、寝るときにはベットを並べる。 太子だった頃のように、事は大小となく全て相談し、彼の発言には従わないことがなかった。 将相の進退でさえ、彼と共に議論した。
  粛宗皇帝は李泌を右相としたがったが、 彼は固辞して言った。
  「陛下が賓友として接してくれれば、宰相のように貴くなれるのです。 何で志を屈する必要がありましょうか!」
  粛宗皇帝は、思い止まった。

  安禄山に従って造反した同羅人部隊、突厥(トルコ人)部隊は、長安苑中に駐屯していた。

甲戌  その酋長・阿史那従禮が五千騎を率いて厩馬二千匹を盗み、朔方へ逃げ帰った。 諸胡と結託して辺地を占領しようと謀る。
  粛宗皇帝は使者を派遣して宣撫したので、降伏する者が非常に多かった。 長安は、同羅兵、突厥兵が逃げ帰ったので大騒動になった。官吏が逃げ隠れたので、 囚人達は逃げ出した。京兆尹・崔光遠は賊から逃れるために、孫孝哲の宅へ吏卒を派遣して守った。 孫孝哲は書状で安禄山へ知らせる。崔光遠と長安令・蘇震は府、県官十余人を率いて来奔した。

己卯  霊武へ到着する。
  粛宗皇帝は崔光遠を御史大夫兼京兆尹として、彼へ渭北の吏民を集めさせた。 蘇震は中丞とする。

   安禄山は、田乾眞を京兆尹とした。 侍禦史・呂煙、右捨遣・楊綰、奉天令の安平の崔器が相継いで霊武へやって来た。呂煙、崔器を御史中丞、 楊綰を起居舎人、知制誥とする。
  粛宗皇帝は、河西節度使・李嗣業へ兵五千を率いて行在へ来るよう命じた。 李嗣業は節度使・梁宰と謀って、ゆっくり行軍して状況を観望した。すると、綵徳府折衝・段秀実が、 李嗣業を詰って言った。
  「君父の危急の時に、晏然として駆けつけない臣子がどこにいますか! 特進はいつも大丈夫を以て自認していましたが、 今日の行いは女子と変わりませんぞ!」
  李嗣業は大いに慙愧し、即座に数通り兵を発するよう梁宰へ言った。 段秀実は自ら副となってこれを率いて行在へ赴いた。
  粛宗皇帝はまた、安西の兵も徴発する。行軍司馬・李栖?は精兵七千を発し、 忠義で励まして派遣した。
  この時、粛宗皇帝は敕をおろして、扶風を鳳翔郡と改称した。

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14. 粛宗即位し、霊武を行在所とし、天下に布武












 粛宗即位し、霊武を行在所とし、天下に布武

至徳元年(756)――――――――――――――――――
7月庚辰  上皇が成都へ到着した。随従した従官及び六軍は、わずか千三百人だけだった。
  一方、燕将・令狐潮の雍丘包囲は続く。張巡は相守ること四十余日、朝廷とは連絡が取れなかった。 令孤潮は、上皇が既に蜀へ御幸したと聞いて、書を以て張巡を招く。 雍丘には六人の大将が居て、官位は皆、開府や特進だった。 彼等は張巡に、「兵勢が敵わないし上皇がどこにいるかも判らないので、賊へ降伏した方がよい」と言った。張巡は、上辺は許諾する。
  翌日、堂上に天子の画像を設け、将士を率いてこれへ挨拶した。人々は、皆泣いた。 そこで張巡は六将を前へひきだして大義を以て責め、これを斬った。 士の心はますます励んだ。
  雍丘城の中では矢が尽きた。張巡は藁人形千余体を作り、黒衣をかぶせて、夜半、城下へつり下げた。 令孤潮の兵は争ってこれを射る。しばらくして藁人形だと気が付いたが、 その時には数十万の矢を奪われていた。
  その後、また、夜間に人が城から降りてきた。賊は笑って備えもしない。 ところが今度は決死隊五百人だった。彼等は令孤潮の陣営へ突撃した。 令孤潮軍は大いに乱れ、塁を焼いて逃げる。 張巡軍は十余里追撃した。
  令孤潮は慙愧し、兵を増員して再度、雍丘城を包囲した。
  張巡の命令で、郎将・雷萬春が、城上から令孤潮へ呼びかけた。賊の弩がこれを射る。 顔に六本の矢が当たったけれども、雷萬春は動かない。 令孤潮は、これは木人形かと疑ったが、試みに尋ねてみて人間と知り、 大いに驚いて遙かに張巡に 「雷将軍を見て、足下の軍令を思い知った。だが、天道をどうするつもりか!」 と言い、張巡は、「君は人倫さえも知らない。なんで天道がわかるのか!」 言った。 それからすぐに張巡は出撃し、燕将十四人を捕らえ百余級の首を斬った。 燕軍は夜のうちに逃げ兵を収めて陳留へ入った。 以来、燕軍は敢えて出撃しなくなった。
  この頃、燕軍歩騎七千余が白沙渦へ駐屯していた。張巡は夜襲を掛けてこれを大いに破る。 帰る途中、桃陵にて燕兵四百余と遭遇し、これをことごとく捕らえた。その衆を分別して、 ?、檀及び胡兵は全員斬った。そして、脅されて従軍していた?陽、陳留の兵は、 皆、釈放して仕事に帰らせた。
  旬日の間に、万余戸の民が、燕の陣営を去って帰順した。

  この時、、河北諸郡は、なおも大唐の為に守っていた。
  常山太守・王?は燕軍へ降伏しようとしたので、諸将は怒り、毬を蹴りつけて馬を暴走させ、 王?を踏み殺させた。この時、信都太守の烏承恩は、三千人の朔方兵を麾下に していた。諸将は鳥承恩を常山の鎮守に迎え入れようと、宗仙運を使者として父老を率いて信都へ向かわせた。 鳥承恩は詔命がないので断ったけれど、宗仙運は説得して言った。
  「常山の地は燕、薊を控え、道は河、洛へ通じ、井?の険があり、敵の喉を押さえられます。 最近、車駕は南へ移り、李大夫(李光弼)は退いて晋陽を守っています。 そんな中で王太守は後軍を指揮して賊へ降伏しようとしましたが、衆心は従わず、民と首脳部が ちぐはぐな状況です。大将の軍兵は精鋭で粛然としており、遠近に敵がありません。 もしも御国を念頭に置くならば、常山へ移動してください。 大夫と首尾相応じれば、勢力は拡大し、誰も敵対できません。 しかし、もしも躊躇して行かなければ、守備を設けることもできません。 常山が陥落したら、信都もどうして独り守れましょうか!」
  鳥承恩は従わなかった。 宗仙運はまた言った。
  「将軍が鄙夫の言葉を収めないのは、兵力が少ないせいでしょう。 今、人々は生きることを楽しまず、報国を思って競い合うように砦を作って結集し、 郷村に據っています。もしも賞を懸けて彼等を招いたら、旬日を過ぎないうちに十万の兵がやって来ます。 朔方の武装兵三千余人と共に用いれば、王事は成就しますぞ。 もしも要害を捨てて人へ与え、四通の土地で安穏としていたら、 それは剣戟を逆さまに持って敗北の道を辿るようなものです。」
  鳥承恩は、ついに躊躇して決断できなかった。
  この月、燕の史思明、蔡希徳が8万の兵を率いて九門を攻撃した。十日すると、九門は偽って降伏し、 城の上へ伏兵を置いた。史思明が登城すると、伏兵がこれを攻撃する。 史思明は城壁から落ち、鹿角でその左脅を傷つける。 夜のうちに、史思明らは博陵へ逃げた。
  粛宗皇帝が即位して霊武を行在とすると、顔眞卿は蝋を丸めた文書で、霊武と通信した。 顔眞卿を工部尚書兼御史大夫とする。河北招討、采訪、處置使は従来通り。 併せて赦書も蝋丸で与えた。顔眞卿は、これを河北諸郡へ頒下し、また、使者を派遣して河南、江、淮へも 頒布した。
  これによって諸道は、粛宗皇帝が霊武にて即位したことを初めて知り、 御国へ尽くす心がますます堅くなった。
  郭子儀らが兵5万を率いて河北から霊武へ到着した。霊武の軍威は、初めて盛んになり、 人々は復興の望みを持った。 
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15. 永王李リンの乱








8月癸未  上皇が制を下して、天下へ恩赦を下した。
    北海太守の賀蘭進明は録事参軍・第五gを蜀へ派遣して、事を上奏した。
第五gは上皇に答えて言った。
  「今の用兵は、財賦が急務ですが、財賦の多くは江、淮にて生産されます。 どうか臣へ一職をください。そうすれば、兵糧の欠乏を防いで見せます。」
  これを聞いて、上皇は悦び、即座に第五gを監察御史、江淮租庸使とした。
  癸巳、霊武の使者が蜀へやって来て、粛宗皇帝の即位を告げた。上皇は怒って言った。
  「朕に許可も得ないで勝手に皇帝を名乗るとは!」
  高力士が言った。
  「陛下は蜀に西走し、国家の人心は定まらぬ有様でした。太子は敢えて衆望のために 入蜀しなかったのです。どうして皇帝になることを許せないなどと言えましょうか。」
  そこで上皇は言った。
  「我が子は天に応じ人に順じる。吾にはもう何の憂いもない!」
  丁酉、制を降ろす。
  「今後、制を誥と改め、表疏では太上皇と称する。四海の軍国事は皆、先に皇帝へ知らせてから、 朕へ奏上せよ。上京が回復したならば、朕はもう政事には関与せぬ。」
  己亥、上皇は軒へ臨み、伝国の宝玉を持って霊武へ行き皇位を伝えるよう、 韋見素と房?、崔渙へ命じた。




 永王李リンの乱
  

至徳元年(756)  ――――――――――――――――――
  
9月
  上皇が、張良テイへ七宝の鞍を賜下した。李泌は粛宗皇帝へ言う。
  「今、四海は分崩しております。人々へ倹約を示さなければなりませんから、 張良テイがこれへ乗るのは、宜しくありません。その珠玉は撤廃して官庫へしまい、 戦功を建てた者への褒賞に使うべきです。」 張良テイは閤の中から「同郷のよしみがあるのに、そんなことまで言いますか!」と言ったことに、
  粛宗皇帝はこうこたえた。
  「先生は、社稷の為に計ってくれているのだね。」
  そして、これを撤廃するよう命じた。 建寧王・李タンが廊下にて泣き、その声は粛宗皇帝のところにまで聞こえた。 粛宗皇帝が驚いて呼び寄せると、李?は言った。
  「臣は禍乱が終わらないことを憂えていましたが、今、陛下は諌言へ流れるように従われました。 陛下が長安にて上皇を迎え入れる日も遠くないでしょう。それを思えば、喜びが極まって 悲しくなったのです。」

  張良テイは、この一件で李泌と李タンを憎んだ。
  他日、粛宗皇帝は李泌に

  「張良テイの祖母は昭成太后の妹で、上皇も忘れられないお方だ。 朕は、立后して上皇の心を慰めようと思うが、どうかな?」 と言った。
  これにこたえて、対して李泌は言った。
  「陛下は、寸尺の功績を建てたいという群臣の望みを叶える為に、霊武にて即位なさったのです。 これは、私利私欲ではありません。しかし、家事については、上皇の命令を待ってからにしても、 わずかな歳月の違いではありませんか。」
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  粛宗皇帝は、これに従った。

11月
  さて、永王李リンは玄宗の子息である。幼くして母を失ったので、粛宗皇帝から大事に育てられ、 いつも抱かれて眠っていた。潼関が陥落したときには、上皇に従って入蜀していた。
  上皇は、諸子へ天下を分掌させようとした。諫議大夫・高適が不可と諫めたが、上皇は聞かない。 李?は領四道節度都使として、江陵を鎮守した。 この頃、江、淮の租賦は江陵へ山積みされていた。李?は勇士数万人を募集し、 その費用は日に巨万を要した。
  李リンは深宮に育ち人事に疎かったが、彼の子息の襄城王・李?は勇力があり、兵を好んでいた。 薛鏐らが彼の為に謀った。
  「今、天下は大乱ですが、南方だけは平和で豊かです。 李?は四道の兵を握り、数千里の領土に封じられているのですから、金陵に據って、 江表を保有するべきです。東晋の故事に倣うのです。」
  粛宗皇帝はこれを聞いて、蜀へ帰るよう李リンへ敕を下した。李?は従わない。 江陵長史・李?は病気を理由に辞任して、行在所へ赴いた。 粛宗皇帝は彼を呼び出して、高適と共に李リンの一件を謀らせた。高適は江東の利害を陳述し、 李?は必ず敗北する根拠も語った。

12月
  淮南節度使を設置し、廣陵等十二軍を領有させ、高適をこれに任命した。淮南西道節度使を設置し、 汝南等五郡を領有させ、来填をこれに任命した。そして彼等と江東節度使・韋陟へ、共に李?について 図らせた。
甲辰  永王李リンが勝手に兵を率いて東巡した。江へ沿って下り、その軍用は甚だ盛ん。 しかし、まだ割拠の陰謀は顕わにしなかった。 呉郡太守兼江南東路采訪使・李晞言が李リンへ書面を送って、勝手に兵を率いて東下した心意を詰った。 李リンは怒り、兵を分けてその将・渾惟明を派遣し、呉郡にて李晞言を襲撃した。 季廣シンは廣陵にて廣陵長史、淮南采訪使李成式を襲撃する。 李リンは當塗まで進軍する。李晞言はその将・元景曜及び丹徒太守・閻敬之へ兵を与えて派遣し、 これを拒む。李成式もまた、その将・李承慶を派遣してこれを拒んだ。 李?はこれを攻撃し、閻敬之を斬って血祭りとした。元景曜も李承慶も 李?へ降伏した。江、淮は、震駭。
  高適と来填、韋陟は安陸に結集し、結盟してこれの討伐を衆へ誓った。
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至徳2年(757)   ―――――――――――――――――――

2月
戊戌  叛乱を起こした永王・李リンは敗死した。李成式は河北招討使・李銑と兵を合わせて李リンを討ったのであるが、李リンは数千の兵力で、 揚子へ布陣していた。李成式は裴茂へ三千の兵力で瓜歩へ布陣させ、 旗幟を

 盛大に張らせて江津へ並べた。李リンとその子の李ヨウは城へ登ってこれを望み、 はじめて懼れた。
  季廣シンは諸将を召集してう。
  「我らは永王に従ってここまで来たが、天命はまだ集まらぬうちに人謀は既に尽きてしまった。 戦う前に、早く去就を決めた方がよい。戦死してしまったら、 逆臣として永く名を遺してしまうぞ。」
  諸将は同意した。ここにおいて、季廣?は麾下を以て廣陵へ逃げた。 渾惟明は江寧へ、馮季康は白沙へ逃げる。李?は憂懼し、 為す術を知らない。
  その夕方、江北の軍は篝火を盛大に並べた。光は水中を照らし、ひとつのものがふたつに見える。 李?軍もまた、篝火で応じる。しかしそれを見て李?は、官軍が既に江を渡ったと思い、 慌てて家族と麾下を連れて逃げ去った。夜が明けて、江を渡った敵兵を見なかったので、 再び入城して兵を収め、船に乗って去った。
  李成式の将・趙侃らは江を渡って新豊へ到着した。李?は、李?とその将・高仙gへ兵を与えて 攻撃させた。趙侃は迎撃し、李?は射られて肩に当たった。 李?の軍は潰れる。 李?と高仙gは敗残兵を集めて南方の?陽へ逃げる。そこで官庫の物や武装兵を収め、 更に南下して嶺表まで逃げようとした。江西采訪使・皇甫?が兵を遣って追討し、 戊戌、李?を捕らえる。そして伝舎にて密かに殺した。李?もまた、乱戦の中で戦死した。 薛鏐らは皆、誅に伏した。
  皇甫センは使者を派遣して、李ヨウの家族を蜀へ帰した。 粛宗皇帝は言った。
  「先は我が弟を生きたまま捕らえたのに、 何で蜀へ送らずに、勝手に殺したのか!」

  遂に、皇甫センを退役させて、以後、彼を用いなかった。



永王軍に参加した李白の詩にいう樓船
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16. 玄宗上皇長安に還る








玄宗上皇長安に還る

至徳2年(757)    ――――――――――――――――――

3月辛酉  玄宗上皇は張九齢の先見を思い、彼の為に涙を流した。中使を派遣して、 曲江にてこれを祭り、その家族を厚く救済した。

9月
  成都からの使者が粛宗皇帝のもとに着いた。上皇は、誥して言った。   「私は、剣南一道さえ貰えれば余生を過ごせる。もう、来なくてもよい。」
  粛宗皇帝は憂懼して、為す術を知らなかった。すると、次の使者が帰ってきて、言った。
  「上皇は最初、陛下からの東宮へ帰るという表を得ると、食欲もなくして歩き回るだけで、 帰りたがらなかったのです。 しかし、群臣の表が至るに及んで、大いに喜ばれ、食欲も出て、 出発の日を下誥されました。」
  粛宗皇帝は李泌を呼び出して言った。
  「皆、卿の力だ!」
  李泌は、山へ帰ることを求めて止まなかった。 粛宗皇帝は固く留めたが、やむを得ず、衡山へ帰ることを許した。 彼の為に山中へ室を築くよう郡県へ敕し、三品料を給付した。

10月丁卯  、粛宗皇帝が長安へ入る。百姓は国門を出て奉迎した。その人の列は二十里も続く。 彼らは皆、踊りまくって万歳を叫び、泣き出す者さえいた。
  粛宗皇帝は大明宮へ入居する。御史中丞・崔器は、燕の官爵を受けた百官を含元殿の前に集め、 頭巾と靴を脱がせて頓首謝罪させた。これを兵卒が取り巻き、 百官へ見物させる。
  太廟は燕軍に焼き払われていた。粛宗皇帝は 素服にて廟へ向かって三日哭した。
  この日、上皇は蜀を出発した。
11月丙申  上皇が鳳翔へ到着した。従う兵は六百余人。 上皇は、全ての甲兵を郡庫へ収めた。粛宗皇帝は、精騎三千を動員して奉迎する。

12月丙午、上皇は咸陽へ到着した。上は法駕を準備して望賢宮にて迎えた。
  上皇は、南楼に入る。粛宗皇帝は黄袍を紫黄袍へ着替え、楼を望んで下馬した。 そこから小走りに進み、楼下にて拝舞する。上皇は楼から降り、粛宗皇帝を撫でて泣いた。 粛宗皇帝は玄宗上皇の足を捧げて、嗚咽が止まらなかった。 上皇は黄袍を取り出して、自ら粛宗皇帝へ着せてやった。 粛宗皇帝は、地に伏して頓首して固辞する。すると、上皇は言った。
  「天数も人心も、皆、汝へ集まっている。朕の余生を保養するのが、汝の孝だ!」
  粛宗皇帝はやむを得ず、これを受ける。 父老は仗外に居り、歓呼して拝礼する。粛宗皇帝が仗を開かせると、千余人が駆け寄り、 上皇へ入謁して言った。
  「臣らは今日、二聖が再び相まみえるのを、目にしました。 もう死んでも恨みはありません!」

  上皇は、正殿へ住むことを肯らず、言った。
  「これは天子の位のものだ。」
  粛宗皇帝は固く請い、自ら上皇を助けて登る。食事になると、粛宗皇帝は 一品ずつ味見をしてから薦めた。丁未  行宮を出発しようとした時、粛宗皇帝は自ら上皇の為に馬を習し、 これを上皇へ進めた。上皇が乗馬すると、粛宗皇帝は自ら轡を取る。 数歩行くと、上皇はこれをやめさせた。 粛宗皇帝は馬に乗って先導したが、敢えて馳道(皇帝専用道路ないし緊急用の軍事道路)には入らなかった。
  上皇は左右へ言った。
  「私は天子となって五十年、まだ貴くはなかった。今、天子の父となって、 ようやく貴くなったのだ!」
  左右は皆、万歳を唱えた。 上皇は開遠門から大明宮へ入り、含元殿にて百官を慰撫する。 次いで長楽殿を詣でて九廟主へ謝り、しばらく慟哭した。 その日のうちに興慶宮へ御幸し、ついに、ここに住んだ。 粛宗皇帝は退位して東宮へ戻ることを何度も請願したが、上皇は許さなかった。
  粛宗皇帝は、張均と張ジを死刑にはしたくなかったが、上皇は言った。

  「張均も張ジも賊に仕えて要職に就いた。張均らは、賊のために我が家事を壊したのだ。 その罪は赦せない。」

  粛宗皇帝は叩頭再拝して言った。
  「張説親子がいなければ、臣の今日はありません (粛宗皇帝は、母が懐妊したときに堕胎されそうになったが、張説のおかげで生まれることができた。) 臣が張均、張ジを守りきれなかったことを死者が知ったならば、 あの世で何の面目があって張説に会えましょうか!」
  そして、地面に身を投げ出して泣き濡れた。粛宗皇帝は、左右に助け起こさせて言った。
  「張ジはお前のために嶺表への流罪としよう。 だが、張均は生かしておくことはできない。 汝もこれ以上救命するな。」

  粛宗皇帝は泣いて命令に従った。


乾元元年(758)   ――――――――――――――――――

正月戊寅  、上皇が宣政殿へ御幸し、冊を授けて、粛宗皇帝へ尊号を加える。 粛宗皇帝は、「大聖」の称号を固辞するが、上皇は許さない。 粛宗皇帝は、上皇を尊んで、太上至道聖皇天帝と言った。
  大唐軍が京城(長安)を解放した時、宗廟の器や府庫の資材の多くは民間へ散佚していた。

5月
  粛宗皇帝は常山太守であった顔杲卿へ太子太保を追贈し、忠節と諡した。
  かつて顔杲卿が死んだ時、楊国忠が張通幽の讒言を信じ、遂に褒賜がなかった。 粛宗皇帝が鳳翔に居る時に顔眞卿が御史大夫となったが、彼が泣いて粛宗皇帝へ訴えた。 粛宗皇帝は張通幽を普安太守として、その有様を上皇へ具に述べた。 上皇は、張通幽を杖殺した。 
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17. 玄宗上皇崩御









玄宗上皇崩御

上元元年(760)    ――――――――――――――――――

6月
  さて、玄宗上皇は興慶宮がお気に入りで、蜀から帰ると、そこに住んだ。 この時粛宗皇帝は夾城に寝起きしており、上皇はまた、度々大明宮へやって来た。 左龍武大将軍・陳玄禮、内侍監 ・高力士は長い間上皇を侍衛していた。
  粛宗皇帝はまた、玉眞公主、如仙媛、内侍・王承恩、魏悦及び梨園の弟子を常に上皇の左右に侍らせ、 上皇を娯しまさせた。
  上皇は、よく長慶楼へ出向いた。父老達は、上皇が行き過ぎるのを見た時、 往々にして平伏し万歳を叫ぶ。すると上皇はいつも、楼下へ酒食を置いて賜下した。 また、かつて将軍・郭英乂らを楼へ上げて宴を催した。剣南からの上奏者が楼の下を過ぎて拝舞した時、 上皇は玉眞公主と如仙媛に、彼らを持てなさせた。
  李輔国は、もともと微賎な出自。にわかに出世したとはいえ、上皇の左右は皆、彼を軽視していた。 李輔国は心中恨み、また、奇功を建てて粛宗皇帝の寵を固めようと思い、粛宗皇帝へ言った。
  「上皇が興慶宮へ住んでいますと、いつも外人と交通しますので、 陳玄禮や高力士が陛下に不利を謀るでしょう。 今、六軍の将士は全て霊武以来の勲臣ですから、彼等は皆、不安になっています。 臣はよくよく諭したのですが、わだかまりを解けません。 それで、上聞しないわけにはいかないのです。」   粛宗皇帝は泣いて言った。

  「聖皇は慈仁な方だ。どうしてそんなことがあろうか!」
  「上皇には、もちろんそのような想いはありませんが、小人達をどうすることができましょうか! 陛下は天下の主となったのですから、社稷の大計を為さなければなりません。乱は芽生える前に消すのです。 どうして匹夫の孝と同じように振る舞えましょうか!それに、興慶宮は朝廷に近く、低い垣根があるだけです。 至尊以外の人が住む場所ではありません。大内は深厳です。ここへ迎え奉れば、あそこよりも格段に勝りますし、 小さいが聖聴を惑わす事も防げます。こうしてこそ、上皇は万歳の安泰を享けられ、陛下には三朝の楽しみがあります。 何を痛まれることがありましょうか!」
  粛宗皇帝は聞かなかった。 興慶宮には、最初三百匹の馬が居たが、李輔国が敕を矯めて取り上げ、 わずか十匹だけを遺した。
  上皇は、高力士へ言った。

  「我が子は李輔国にたぶらかされて、孝を尽くせずに終わりそうだ。」
  李輔国はまた、上皇を西区内へ迎え入れるよう、六軍の将士へ号哭叩頭して請願させた。 だが、粛宗皇帝は泣いたけれども応じなかった。 李輔国は懼れた。やがて、粛宗皇帝が不予になった。

7月未、李輔国は粛宗皇帝の言葉を矯称し、西内で遊ぼうと、上皇を迎えた。 そして、睿武門まで来ると、李輔国率いる弓兵五百騎が抜刀して道を阻み、 奏した。  「興慶宮は狭すぎるので、上皇を大内へ遷居させよとの、皇帝のお言葉です。」   上皇は驚き、馬から落ちそうになった。 高力士は言った。   「李輔国、何と無礼をするのか!」
  高力士は李輔国を叱りつけて下馬させる。 李輔国はやむを得ず、下馬した。そこで高力士は、上皇の誥を宣じた。
  「諸将士は、各々罪に問わぬ!」
  将士は皆、刃を収めて再拝し、万歳を唱えた。 高力士はまた、李輔国を叱りつけて自分と共に上皇の轡を執らせ、 西内まで侍衞して行かせた。こうして上皇は甘露殿に住むこととなった。 留められた侍衞兵は老人数十名だけだった。 陳玄禮、高力士及び旧来の宮人は左右に留められなかった。
  上皇は言った。
  「興慶宮は、我が王地だ。私は度々皇帝へ譲ったが、皇帝は受けなかった。 今日の移住は、また私の本懐だ。」
  この日、李輔国と六軍の大将は素服で粛宗皇帝へ謁見し、罪を請うた。 粛宗皇帝も諸将へ対しては、労って言った。
  「南宮と西内に、どれほどのちがいがあろうか!卿らは小人が惑わすことを恐れ、 社稷を安んじる為に、紊乱が大きくなる前に防いだのだ。 何の懼れることがあるか!」
  刑部尚書・顔眞卿が百僚を率いて上表し、上皇の起居を問うよう請うた。 李輔国はこれを憎み、上奏して蓬州長史へ左遷した。
  丙辰、高力士を巫州へ、王承恩を播州へ、魏悦を湊州へ流す。陳玄禮は老齢退職となる。 如仙媛は帰州へ置き、玉眞公主は宮殿から出して玉眞観へ住まわせた。
  粛宗皇帝は更に後宮から百余人を選んで西内へ置き、掃除や庭の手入れをさせた。 萬安、咸宜の二公主が、衣食の世話をする。 四方から献上される珍奇な品々は、まず上皇へ献上した。
  しかし上皇は、毎日鬱々とし、食欲もなく穀物を食べず、 次第に病気になっていった。粛宗皇帝は、はじめのうちこそ見舞いに行っていたが、 やがて粛宗皇帝も病気になり、ただ人を派遣して見舞うだけになった。
  その後、粛宗皇帝はようやく後悔し、李輔国を憎んで誅殺したくなったが、彼が兵権を握っているのを畏れ、 躊躇して決断しなかった。
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上元2年(761)   ――――――――――――――――――

4月壬午  梓州刺史の段子璋が造反した。 段子璋は驍勇で、上皇に随従して蜀にて功績を建てた。東川節度使・李奐がこれを替えるよう奏したので、 段子璋は挙兵して綿州にて李奐を襲撃しようとした。 途中、遂州を通過すると、?王巨が郡の官吏を正装させてこれを迎えた。 段子璋は、これを殺す。 李奐は戦って敗れ、成都へ逃げた。
  段子璋は梁王と自称し、黄龍と改元する。綿州を龍安府と改称し、 百官を設置する。また、剣州を落とす。

5月乙未  西川節度使の崔光遠と東川節度使・李奐が、共に綿州を攻めた。
庚子  これを抜き、段子璋を斬って叛乱を鎮圧した。

端午  山人・李唐が粛宗皇帝へ謁見した。粛宗皇帝は幼女を抱き、李唐へ言った。
  「朕はこれを離しがたい。卿は怪しまないでくれ。」
  対して言った。
  「太上皇も陛下に会いたく思われています。それは、陛下が皇女を思う想いと同じです。」
  粛宗皇帝は涙を零したが、しかし張后を畏れて、なお敢えて上皇を軟禁している 西内へ出向かなかった。
  この年の冬至の翌日、粛宗皇帝は西内にて上皇へ挨拶した。



寶應元年(762)  ――――――――――――――――――

4月庚寅  郭子儀の出発間際に、粛宗皇帝が不予となり、群臣は誰も謁見できなかった。 郭子儀は請願した。
  「老臣は出征命令を受け、外地で死のうとしています。陛下に謁見できなければ、 安らかに死ぬことができません。」
  粛宗皇帝は、呼び出して寝室へ入れ、言った。
  「河東のことは、卿へ一任する。」

 


甲寅  玄宗上皇が崩御した。在位43年、蜀にいること二年余。再び長安に還ってきて5年余。78歳であった。 尊諡して、大聖大明皇帝とする。後世、これをもって玄宗は唐明皇とよばれる。
  一方、粛宗皇帝も体力が衰えて朝廷に上朝しなくなった。特赦を下された高力士は 玄宗上皇の崩御を郎州に至って知って慟哭し、吐血して薨御した。

享年79歳。
 
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