杜詩詳注 巻十一
11 杜詩詳注と杜甫全詩訳注 巻十一
《杜詩詳注》唐・杜甫著 清・仇兆鰲注 中華書局出版
《杜少陵詩集》 鈴木虎雄譯解 國民文庫刊行會
《杜甫全詩訳注》下定正弘・松原明編 講談社学術出版
杜詩詳注(二)・杜少陵集〔二〕 巻十一 作時(西暦) 杜詩詳注〔二〕 杜少陵集〔二〕 全詩訳注〔二〕
巻 -ID 詩題
111-01 嚴中丞枉駕見過(卷一一(二)八八九)762年889 481421
211-02 遭田父泥飲美嚴中丞(卷一一(二)八九○)762年890 483423
311-03 奉和嚴中丞西城?眺十韻(卷一一(二)八九三)762年893 486427
411-04 中丞嚴公雨中垂寄見憶一?奉答二? 其一(卷一一(二)頁八九五)762年895 489429
511-05 中丞嚴公雨中垂寄見憶一?奉答二? 其二(卷一一(二)頁八九六)762年896 430
611-06 謝嚴中丞送青城山道士乳酒一瓶(卷一一(二)八九六)762年896 491431
711-07 三絶句其一(卷一一(二)頁八九六)762年896 492432
811-08 三?句其二(卷一一(二)頁八九七)762年897 433
911-09 三?句其三(卷一一(二)頁八九七)762年897 434
1011-10 戲為六絶句其一(頁八九八)762年898 495435
1111-11 戲為六?句其二(頁八九八)762年898 437
1211-12 戲為六?句其三(頁八九九)762年899 438
1311-13 戲為六?句其四(頁九○○)762年900 439
1411-14 戲為六?句其五(頁九○○)762年900 440
1511-15 戲為六?句其六(頁九○一)762年901 441
1611-16 野人送朱櫻(卷一一(二)九○二)762年902 500442
1711-17 嚴公仲夏枉駕草堂兼攜酒饌得寒字(一本作鄭公枉駕攜饌訪水亭)(卷一一(二)九○三)762年903 503444
1811-18 嚴公廳宴同詠蜀道畫圖得空字(卷一一(二)九○五)762年905 505446
1911-19 戲贈友二首其一(卷一一(二)頁九○六)762年906 506447
2011-20 戲贈友二首其二(卷一一(二)頁九○六)762年906 448
2111-21 大雨(卷一一(二)九○七)762年907 508449
2211-22 溪漲(卷一一(二)九○九)762年909 511452
2311-23 大麥行(卷一一(二)九一○)762年910 513454
2411-24 奉送嚴公入朝十韻(卷一一(二)九一一)762年911 514455
11025酬別杜二 附嚴武詩(卷一一(二)九一一)762年913
2511-25 送嚴侍郎到綿州同登杜使君江樓宴得心字(卷一一(二)九一四)762年914 518460
2611-26 奉濟驛重送嚴公四韻(卷一一(二)九一六)762年916 521462
2711-27 送梓州李使君之任(卷一一(二)九一六)762年916 522463
2811-28 觀打魚歌(卷一一(二)九一八)762年918 524466
2911-29 又觀打魚(卷一一(二)九二○)762年920 527468
3011-30 越王樓歌(卷一一(二)九二一)762年921 529471
3111-31 海椶行(卷一一(二)九二二)762年922 531472
3211-32 姜楚公畫角鷹歌(卷一一(二)九二四)762年924 532474
3311-33 東津送韋諷攝?州軍事(卷一一(二)九二四)762年924 533476
3411-34 光祿(土反)行(卷一一(二)九二五)762年925 535478
3511-35 苦戰行(卷一一(二)九二六)762年926 536479
3611-36 去秋行(卷一一(二)九二六)762年926 538481
3711-37 廣州段公曹到得楊五長史譚書功曹卻歸聊寄此詩(卷一一(二)九二七)762年927 539483
3811-38 送段功曹歸廣州(卷一一(二)九二八)762年928 540484
3911-39 題玄武禪師屋壁(卷一一(二)九二九)762年929 542486
4011-40 悲秋(卷一一(二)九三一)762年931 543487
4111-41 客夜(卷一一(二)九三一)762年931 544488
《客夜》
客睡何曾著,秋天不肯明,入簾殘月影,高枕遠江聲。
計拙無衣食,途窮仗友生。老妻書數紙,應悉未歸情。
客睡 何ぞ曾て著せん、秋天 肯て明らかならず。
簾を捲【まく】る 残月の影あり、枕を高す 遠江【えんこう】の声あり。
計拙【けいさつ】にして 衣食無し、途窮【みちきゅう】して友生に仗る。
老妻 書数 紙、応に未帰の情を悉【つく】すなるべし。
4211-42 客亭(卷一一(二)九三二)762年932 546490
杜甫は江陵に旅立とうと決意したので梓州から家族を迎えに成都に向かう途上で、梓州にあっての寓居の亭でのさまを述べるものである。
4311-43 九日登梓州城(卷一一(二)九三三)762年933 547491
4411-44 九日奉寄嚴大夫(卷一一(二)九三四)762年934 548492

この詩の附録として、この詩に答えた「嚴武」の詩は次の通りである。
4511-45 秋盡(卷一一(二)九三六)762年936 550494
4611-46 戲題寄漢中王三首其一(頁九三七)762年937 552 496
4711-47 戲題寄漢中王三首其二(頁九三八)762年938 498
4811-48 戲題寄漢中王三首其三(頁九三九)762年939 499
漢中王 名を璃といい譲皇帝(寧王)の第六子で汝陽王進の弟である。玄宗が蜀に幸したときに従って漢中に至り、漢中王に封ぜられ銀青光禄大夫・漢中郡太守を加えられた。のち粛宗を諌めて帝の怒りにふれ蓬州の刺史に貶せられた。ここには漢中王と称しているが蓬州の刺史として何かの事によって梓州に来たのにより作者が彼とあったものとおもわれる。
戲題寄上漢中王,三首之一》蜀中転々漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2945
戲題寄上漢中王,三首之二》蜀中転々漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2950
戲題寄上漢中王,三首之三》蜀中転々漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2955
4911-49 玩月呈漢中王(卷一一(二)九四○)762年940 556501
5011-50 相從行
(《杜臆》:舊作相從行,無謂,當作從事行)贈嚴二別駕(卷一一(二)九四○)(從事行贈嚴二別駕)762年940 557502
5111-51 贈韋贊善別(卷一一(二)九四三)762年943 561506
5211-52 寄高適(卷一一(二)九四三)762年943 562508
作者: 杜甫 762年 寶應元年 51?
卷別: 卷二三四 文體: 五言律詩
詩題: 寄高適【案:草堂逸詩拾遺。】
寫作地點: 梓州(劍南道北部 / 梓州 / 梓州)
交遊人物/地點: 高適 書信往來(劍南道北部 益州 成都)
5311-53 野望(卷一一(二)九四四)762年944 564510
5411-54 冬到金華山觀因得故拾遺陳公學堂遺跡(卷一一(二)九四六)762年946 566512
5511-55 陳拾遺故宅(卷一一(二)九四七)762年947 568514
初唐詩人である陳子昂の旧宅に立ち寄った時の詩。
卷別: 卷二二○ 文體: 五言古詩
詩題: 陳拾遺故宅【:宅在射洪縣東七里東武山下。】
作地: 目前尚無資料
地點: 陳拾遺故宅 (劍南道北部 梓州 射洪)
通泉 (劍南道北部 梓州 通泉) 別名:沈家坑
5611-56 謁文公上方(卷一一(二)九四九)762年949 570516
5711-57 奉贈射洪李四丈(卷一一(二)九五三)762年953 573520
5811-58 早發射洪縣南途中作(卷一一(二)九五四)762年954 575522
5911-59 通泉驛南通泉縣十五里山水作(卷一一(二)九五六)762年956 578524
6011-60 過郭代公故宅(卷一一(二)九五七)762年957 580526
6111-61 觀薛稷少保書畫壁(卷一一(二)九六○)762年960 583531
6211-62 通泉縣署屋壁後薛少保畫鶴(卷一一(二)九六一)762年961 586535
6311-63 陪王侍御宴通泉東山野亭(卷一一(二)九六三)762年963 588538
6411-64 陪王侍御同登東山最高頂宴姚通泉?攜酒泛江(卷一一(二)九六四)762年964 589542
6511-65 漁陽(卷一一(二)九六六)762年966 582544
6611-66 花底(卷一一(二)九六六)763年966 594546
6711-67 柳邊(卷一一(二)九六七)763年967 595547
6811-68 聞官軍收河南河北(一云收兩河)(卷一一(二)九六八)763年968 596549
(1) 厳武が成都に着任して、杜甫は安定した気持ちになった。宝応元年の四月に玄宗が七十八歳で崩じ、その十二日後に粛宗が五十二歳の若さで崩じる。厳武はこの年、両帝の橋道使に任ぜられ、都に呼びもどされた。
(2) 六月、杜甫は弟杜占を伴って厳武を綿州(陝西省綿陽県)まで見送り、さらに綿州の北20kmの奉済駅までついていって、別れた。ここでの厳武との交友は5,6ヶ月であった。
(3)七月、成都少尹の徐知道が叛乱。
このとき蜀州(四川省崇慶県)の刺史であった高適が兵を出して、叛乱は一か月で鎮圧している。杜甫はその間、乱を避けて綿州にとどまるが、乱が平定しても成都にもどらない、連合軍のウイグルが各地で略奪を繰り返し、世情は不安定のままであった。それにこの期を狙い吐蕃が兵を動かしていたためであった。梓州(四川省三台県)に移って梓州刺史で東川留後の章彝(しょうい)のもとに身を寄せ、そこでは、杜甫自身、安寧した生活を期待したのである。
(4) 杜甫は?江沿いの諸城市で過ごすことを考えた。成都にいた家族も呼び寄せている。同年十月、政府軍は洛陽の史朝義軍を攻めていたが、内紛で弱体化した史朝義軍は敗走し、政府軍は河南・河北を奪回した。
史朝義は北に追い詰められ、寝返った部将たちによって翌広徳元年(763)正月に平州(河北省盧龍県)で自殺した。十年近くに及んだ安史の乱は、やっと終息した。杜甫はこれを梓州で聞きこの詩を作った。
6911-69 遠遊(卷一一(二)九六九)763年969 598551
7011-70春日梓州登樓二首其一(卷一一(二)頁九六九)763年969 599552
7111-71春日梓州登樓二首其二(卷一一(二)頁九七○)763年970 554
(安史の乱が収束した。梓州にいた杜甫は、天下の情勢について、所管を述べた。)
7211-72有感五首其一(卷一一(二)頁九七一)764年971 603555
7212-73有感五首 其二(卷一一(二)頁九七二)764年972 557
7411-74有感五首其三(卷一一(二)頁九七三)764年973 559
7511-75有感五首 其四(卷一一(二)頁九七五)764年975 559
7611-76有感五首其五(卷一一(二)頁九七六)764年976 561

一では、将軍たちの不甲斐無さを嘆き、二では、国内が不穏で、何処も安全なところがないといい、三では、洛陽に遷都しようとする愚行を憂い、四では、王室王族の弱体化を、五では、暗君と皇后の裏切り、宦官の専横など、求心力を喪失した統治体制を嘆く。
7711-77 春日戲題惱?使君兄(一本無兄字)(卷一一(二)九七八)763年978 609652